サンデー毎日 2010年10月3日号

新 忘れられた日本人 佐野眞一  琉球独立党党首・野底土南

 沖縄の「反骨」の政治家として先週紹介した瀬長亀次郎も、先々週紹介した大山朝常も、いまや“忘れられた沖縄人(ウチナンチュー)”になってしまった。
 しかし、ごく最近まで「琉球独立論」を主張してやまないウチナンチューがいた。今週は琉球独立党名誉党首として人生をまっとうして三年前に他界した野底土南(ぬかどなん)という人物を紹介しょう。
 野底は昭和三(一九二八)年、沖縄本島より台湾に近い日本最西端の与那国島で生まれた。
 与那国島の医師だった池間栄三氏(故人)がまとめた『与那国の歴史』によれば、与那国が初めて琉球王朝の支配下に置かれたのは、永正七(一五一〇)年のこととされている。本土の歴史でいえば、室町中期である。
 与那国島のほぼ中央部に、トゥング田と呼ばれる一町歩(約三千坪)あまりの天水田がある。漢字では「人枡田」と書き、島津藩の琉球侵攻から始まった過酷な人頭税徴収を語るとき、必ず引き合いに出される場所である。
 前掲の『与那国の歴史』は、このトウング田について次のように述べている。
<その昔、村々から満十五歳以上満五十歳までの男子をこのトゥング・ダに非常招集し、後れてその中に入れなかった不具廃疾者を惨殺したと伝えられている>
 与那国は渡るのが困難な島という意味から“渡難”とも呼ばれる。野底のペンネームはここからとられた(本名は野底武彦)。
 日本最西端の岬・西崎(いりざき)近くにある「くぶらばり」も、この島の悲惨な歴史をいまに伝えている。
「くぶらばり」は、幅約三メートル、深さ約七メートル、長さ約十五メートルの巨大な岩の割れ目である。人口調節のため、そこに島じゅうの妊婦が集められ、強制的に割れ目を飛び越えさせられた。無事に飛び越える者は少なく、ほとんどの妊婦が転落死を遂げた。仮に無事に飛び越えたとしても、それが流産の原因となった。
 悲惨な歴史に彩られ、いままた人口わずか千八百人と超過疎化に悩むこの島は、しかし、ほんの短い期間に過ぎなかったが、島じゅう人であふれ、ジャンク船が港に激しく往来する香港並みのにぎわいを見せた一時期があった。
「景気時代」とも「密貿易時代」ともいわれる敗戦直後のことである。人口は少なく見積もっても一万二千人を数え、飲み屋や料亭が三十八軒、映画館と芝居小屋も二
館ずつあった。
 その時代の与那国島をルポした大浦太郎の『密貿易島』という本に、次のような記述がある。
<戦前、与那国は植民地・台湾との関係が沖縄より深く、日用雑貨などの買い物も台湾に行っていた。敗戦後、与那国と台湾の問に国境線が引かれてからも、台湾の紙幣が流通していた。戦後最初の与那国の選挙では、「日本復帰論」と「台湾復帰論」、それに「与那国独立論」をめぐる三つ巴の論戦があった>
 台湾からは食料品、医療品などが運ばれ、与那国からは沖縄本島のアメリカ軍基地から盗んできた「戦果」のタバコや薬莢、銅製品などが運ばれた。台湾では当時、国民党軍と共産党軍が内戦中だったので、薬莢や銅製品は両軍の武器の原材料として使われた。
 そろそろ、野底土南について語ろう。野底は最初、沖縄本島の沖縄県立首里第一中学(現・首里高校)に進むが、途中、台湾に渡り、基隆(キールン)中学に転校した。
 終戦後、台湾から島づたいに北上し、日本に渡って法政大学経済学部に進学した。在学中には沖縄県出身者で初の公認会計士の資格を取得した。
 野底は昭和四十三年、沖縄初の行政主席選挙に立候補している。そのとき野底を取材した竹中労は、野底を絶賛している。
<野底土南は誇大妄想狂か然らず、彼は私がこの島で会った、最も理性的な人物だった>
 野底が主席選に掲げたスローガンは、理性の支配する社会の建設だった。公認会計士らしく経済政策も具体的だった。いま注目されている尖閣列島の海底油田を琉球の国有財産として国家財源にあて、健全な経済運営をしていくとの政策が盛り込まれた。
 私が野底に会ったのは、二〇〇六年十一月に行われた沖縄知事選中だった。このとき野底は沖縄本島南部の旧玉城村(たまぐすくそん/現・南城市)の老人病院に入院中だった。
 ベッドに痩身の体を横たえた野底の風貌は仙人然としていた。頭はすっかり禿げあがり、顎には立派な白い鬚がたくわえられている。
 病床の野底を紹介し、枕元でのインタビューの段取りまでセットしてくれたのは、野底から琉球独立党をバトンタッチされ、二代目の党首として沖縄知事選に立候補した屋良朝助という中年の好漢だった。屋良が琉球独立論の呼びかけを新聞で知ったのは、那覇高在学中だった。
「復帰一年前です。高校では沖縄の歴史をまったく教わらず、明治政府による琉球処分も知らなかった。それだけに野底さんの主張する“琉球独立論”は衝撃的でした」
 野底のインタビューは、屋良の発案で、琉球共和国の国旗の三星天洋旗を野底に贈呈するところから始まった。
 国旗は青と紺の二つのストライプで上下半分に仕切られ、中央に黄色と赤と白の星が並んでいる。青と紺は琉球の空と海を表し、三つの星は理性と情熱と平和を表しているという。
 その旗を渡すなり、痩せた体を水色の病院着につつんだ野底は、ベッドから上半身だけ起き上がり、涙をとめどなく流しはじめた。
野底さんの故郷の与那国にも行ってきましたと話しかけると、野底の目から涙がまた滂沱と流れた。
 野底への質問は体調に配慮して、二、三にとどめた。
 −−野底さんは沖縄で最も貧しく、最も差別された与那国のお生まれです。そうした成育環境が“琉球独立論”に影響したということはありませんか。
「僕が琉球独立論を唱えるのは、沖縄本島の連中に負けちゃいかんという思いが小さい時からあったからです。僕は小学校時代から英語のテキストをお祖父さんに買ってもらって勉強していました」
 −−子どもの頃から独立自尊の気持ちがあったわけですね。いまでも“琉球独立”の思いに変わりはありませんか。
「ええ、いまでもあります。私もそう長くはないでしょうが、琉球独立の旗だけは死ぬまで掲げたいと思っています」
 −−最後に、いまの沖縄、いまの日本に一番言いたいことは何ですか。
「いまの沖縄も日本もアメリカの言いなりです。憲法に書いてあるように第三者に頼らないで自立しないといけない。アメリカ一辺倒の政策は、早晩改めなきゃあならんときが必ず来ると思います。沖縄にも日本にもそれだけの力はあるんです」
 このインタビューから約九カ月後の〇七年八月、野底土南は肺炎により七十八年の生涯を閉じた。


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