竹中労 19/20

あると主張する限り諸君は永久に差別される。沖縄ニッポンではないと“異邦の論理”で大和に対峙する限り諸君は自由なのである。
 昭和45年(1970)11月、“国政参加選挙”で当選した7人の沖縄県議員を、日本国会は、“天皇しか出入りしない”正面玄関から迎え入れた。晴れがましくライトを浴びて代表質問に立つ沖縄の選良、このときまさに琉球処分が始まったことを自覚せず、権力体制の赤いじゅうたんを踏んで、天にも登る心地だったにちがいない。
 100年の時をへだてて、あまりにも符合する本土受入態勢に、チョンダラー慄然とする、この異常な隷待こそ、ヤマトの沖縄に対する“差別”の証左ではないのか? 議員たちは誰一人、“天皇の門”から国会に入ることを拒まなんだ、−−天皇ノ重渥、感戴ノ至リニ耐エザリキとくら、チャチャラカチャカポコ平和と民主でよかったネ。

 夢(ゆみ)ぬ狂人(ふりむん)や 後先(あとさち)ん知らん
 我儘 自儘たむん
 見いぶさあるときや 夢や見らん
 ゆみぬふりむん さらふりむん
 ゆみぬふりむん ままならん

 ユミヌ・チョンダラー、俺は流れ者、諸国行脚の芸能者、東の方に事件あれば西の方に伝え、北から南へポロロン太鼓打ち鳴らし、ありゃ負けたか四九か、ここよんく聞けしっきゅーか、子宮は女子の大切で、そこが男の好くところ、四四なら赤子の寝しょんべん、おやまた負けたか三五か、産後の嚊なら気が早い、やれいくまたいくまたまたまたいく、ササ負けたか三三か、サンサンサカズキ済みました、緞子どうするかけ声で出来た嬰子がこの子です。家は代々犬殺し、親父は墓所の骨せせり、セガレ遊廓穴せせり、後に残りし質札は無間地獄の空証文……
 とまあ、こげな風に阿呆ダラ経をうたって村々をまわりよった、ご見物衆聞(ち)ちみ候(そう)れ、わいらは遠く九州は博多よりビンズルモーと申す小高いところに部落を造り、一間四方の阿弥陀堂を囲んで渡世致しておりまする。先祖供養、人形まわし、チョンダラー舞えば3年の厄払い、徳川300年、葵御紋の栄える御代はずーんと裕福に楽しく暮らしておりましたが、明治・大正・分明開化の時の流れに、やれ猥雑だの風紀を乱すの、果ては盗人のうたがいをかけられ、到るところで迫害・差別・唐ガラシの

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