竹中労 18/20

きた。これにて琉球安泰、と思いこんでいたんだわサ。アニはからんや、弟然らんや明治12年(1879)3月26日、処分官松田道之は廃藩置県を示達。5月27日琉球最後の王・尚泰を日本に連れ去り終生軟禁する。かくて第二尚王朝は滅亡した。
 羽地朝秀、宜湾朝保、屋良朝苗、3人とも“朝”を冠としておるのは、朝ナントカてェ名前が沖縄に多いので、べつに偶然の一致ではない。だが、琉球史に登場する親日派、知日派ことごとく、買弁と呼ぶべきであるとチョンダラー申上げたいのだ。
 極論か、……極論では決してない、朝鮮を見よ、明治38年(1905)第2次日韓協約によって併合への道をひらいた、李王朝5人の大臣−−李完用以下は、今日“五賊”と民衆から呼ばれ、ワイロをむさぼり人民を侵略者に売るものの代表とされている。1972年“復帰”のまさに100年前、琉球処分の道をひらいた伊江王子、宜湾朝保たちはコンプラドール以外の何者でもなかった。そして屋良朝苗、お前もだ!
 日琉同祖=一視同仁が、沖縄にもたらしたもの、ナマヌジシーヤ、ヤマトグチ、ツウジランドン、サシツケータビーサヤー(当節は日本語が話せないと不自由ですな、伊波普猷“琉球語便覧”より)、方言罰礼による同化教育、琉球語を使っているのを見つかると、バチフダを渡されて操行点を1日に半点ずつひかれる、札をもらったものは方言を使った他の生徒をみつけて、教師のところへ連れていかねばならぬという仕組みだ。密告スパイ行為の奨励、このバチフダ教育は戦後も沖縄教職員組合によって継承され、いわゆる祖国復帰運動に結びつけられた。
 朝鮮人共和会手帳−−、「互イニ内地語デ談話シマセウ」「早ク内地文化ニ染ルヤウニシマセウ」「男女トモニ朝鮮衣服ヲ速ヤカニ廃止シマセウ」「本会ハ×警察署管内半島人同胞デ組織サレ当局ノ御指導ノ下ニ皇国臣民タルノ精神ヲ涵養スルコトヲ目的トスル、右各項ニ違反シタル場合ニハ除名送還スルコトアルベシ」(1940年)
 昭和20年(1945)、4月から6月に至る“沖縄決戦”、琉球総人口の3分の1を殺した、日本は、“1億玉砕”のかけ声だけで本国ではついに戦わず、奄美・沖縄を戦勝国アメリカに差出して、4分の1世紀をかえりみなかった。
 1945年8月6日、9日、広島・長崎に原爆炸裂、朝鮮人強制徴用工40,000人が死亡、放射能を浴びた20,000人、彼らの祖国に帰って4分の1世紀、無告無補償の谷間にいまなお切り棄てられている−−。
 ウチナーンチュ、「我々は朝鮮人とちがう」というか? ナンセンス、同国人で

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