竹中労 17/20

この男を誉め上げておるから世話はない。
 向象賢の日琉同祖論これすなわち、支配者大和人(やまとんちゅ)と被支配者(うちなーんちゅ)とを、同化帰一する方便で述べられた。俺っち三韓出身のチョンダラー、同化帰一せぬがゆえにでなくむしろ“日本人になろうとする”努力、逆に差別を生み出してしまうパラドクスを我身の上に、イヤというほど見てきたんだわサ。むかしのことは措いて、近くに例をひけば1919年3月の“万歳事件”、3,000,000万もの群衆が独立バンザイを叫んで蜂起した大乱を、ようやく鎮圧した大日本帝国天皇、民心安定の詔書を発した−−、  「朕、ツトニ朝鮮ノ康寧ヲ以テ念トナシ其ノ民衆ヲ愛撫スルコト一視同仁、朕ガ忠良ナル臣民トシテ秋毫差異アルコトナク、名々其ノ所ヲ得、其ノ生ニヤスンジテ休明ノ決ヲ受ケシムコトヲ期セリ」
 平ったくいえば、チンは日本人も朝鮮人も同じ“臣民”と考えとる、職業、学問等々の機会均等と生活の安定を与えてやる、同じく明るい暮らしを約束するから、これ以上騒ぎ立てるなという意味だ。“同化教育”、この時を起点としてはじまる、けっきょくそれは「日本語をはなせる下層労働者」をつくり出す政策であったのだが、朝鮮民衆の中には一視同仁其ノ所ヲ得ルという幻想を抱いて、来日するものが少なくなかった。
 その結果−−、関東大震災虐殺、全国3府27県から23,715名を軍・警察等に収容、土木建築の強制労働に従事させ、日当内地人2円34銭、朝鮮人1円1銭の差別に置く。
 チョーセンチン
 チョーセンチント バカニスナ
 テンノーヘイカ
 ミナオナチ
 ……沖縄の人々、なぜか、朝鮮人が被虐の系譜を語るごとくには、日本への呪詛を語ることをしない。明治5年(1872)9月、維新の慶賀使として伊江王子尚健、宜湾親方朝保、随員100余名ともなって上京、「朝廷スナワチ琉人ヲ寵異シ、家族毛利氏ノ御宅ヲ空シウシテ館宿セシメタリ、毎日官費ヲ以テ盛膳ヲ給イ、カツハシバシバ勝景美観ノ処ニ招延隷待セラレ、天恩ノ重渥、威戴ノ至リニ耐エザリキ」(随員・喜舎場朝賢)
 くりかえされる上り口説(くどぅち)、尚寧王の場合と同様、宴会・観光で骨ヌキにされた一行は、「尚寧ヲ琉球藩主トシ、華族ニ列ス」というお墨付きをいただいて戻って

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