竹中労 16/20

うち壊し、砂糖の収納小屋もうち壊した。代官は馬にとび乗って逃げ出し、全島役人を非常呼集して、鎮圧の構えを示した。
 “暴徒”は村外れの丘に砦を築き、食料を持ちこみ、女房子供も一緒に立てこもってホラ貝を吹き鳴らし、来るならこい!と徹底抗戦の決意表明で応酬する、対立は12日間つづいて喧嘩両成敗、寺師次郎右衛門はお役御免、一揆側の主だった者6人は沖永良部に流されて、チョン。
 以上の経過からお気づきと思うが、薩摩は少なくとも、島一揆に対して死罪を適用したことはなかった。よろしいか、反逆に対してより暴戻であった(裏返していえばより恐怖した)のは、首里王府コンプラドール・王侯貴族どもだった。沖縄人よ、このことを胸に置くがよい、あなたがたを裏切りつづけてきたもの、それは尚寧王から屋良朝苗に至るまで為政者と称する奴輩、琉球自身の裡なる買弁であったことを。

 唐ぬ世(ゆー)から 大和ぬ世
 大和ぬ世から アメリカ世
 ひるまさ変(かわ)たる 此(く)ぬウチナー

 さて、チョンダラー先を急ぎまする。今に至るまで世の塵芥とされ、萬物の垢のごとく卑しめられてきら人外河原乞食、数世紀もの怨みツラミを、たかだか数十枚の原稿用紙に吐きつくすこと到底かないませぬ、さてィむ浮世(いちゆ)ぬ浅ましや、天底(あみすく)の星屑の栄光は遙かな先でおじゃります故、暫し舞いをとどめて琉球亡国の物語、骨子(あらすじ)をのみ口上な仕まつりましょう、才蔵やアイアーイ。
 薩摩侵略の50年後、半独立琉球国の宰相羽地朝秀、“日琉同祖論”を唱える。曰く、「日本人と祖先を同じくする琉球人が本来の大和ぶりを忘れ、異国である唐風に染ったことに諸悪の根源はある、琉球人すべからく一切を日本に学び、早く模倣して、大和心になることが肝要である……」
 ハテ? 同祖であるから国も一つにせねばならぬという法はあるまい、かくいうチョンダラーはもと三韓から渡来した、日韓同祖にまぎれもない、ならば朝鮮にもさらに遡って中国にも日章旗を立てるか? そもそも羽地朝秀、またの名を向象賢なる人物は尚真王の血脈をひく。某日、尚豊王摂政の具志川王子(尚寧)は首里の街角で、下男におぶわれてチョンダラーを見物している小児にふと目をとめて、「他日この子は琉球の大和支配のゆるぎないタガをはめる人物になるだろう」と予言した。意味深長、まさに向象賢は大和支配のゆるぎないタガで琉球弧をしめ上げる、史上最悪の買弁政治家となった。琉球史家はよってくだんのごとく、天下の名宰相であったと

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