竹中労 15/20

に琉球にもたらされたのはその前年のことでありました……。
 すなわち、首里王府は大和薩摩の"切支丹弾圧"を先取りして、本宮良の一統を犠牲(いけにえ)の羊としたのでございます。寛永14年には、読谷(よみたん)村に上陸した南蛮人を捕え、薩摩に護送してこれを殺しています。「こうして琉球が日本の禁令である異国人を捕えて、はるばる送り届けたというので、薩州はこれを非常に歓待しました」(琉球王朝史)
 ほんらい、人頭税その他の苛酷をきわめた収奪と、ハーマヤ的な地役人の横暴に対するプロテストであった石垣天主教事件は、首里王府によって、大和薩摩の意を迎える切支丹伴天連の謀反劇にすり換えられ、歴史の闇に葬られてしまいました。
 ……八重山にいまも残る、赤また黒またの秘密結社の遺制と、石垣天主教事件をチョンダラー関連づけて愚考しますが、それはこの秋に三一書房から上梓する『琉球幼視行』で詳述することとして、眼を奄美群島に移してみると、中でも圧倒的に過酷な“黒糖地獄”徳之島では、100年以上に渡って執拗な抵抗がくりかえされている。
 元文元年(1736)、伊仙・検福の村民たちは沖縄島へ逃散することを決め、全村の老若男女がくり舟で出航、沖永良部にたどり着いたところを地役人に捕えられる、首謀者3名遠島、他は10歳の少年に至るまで足かせ首かせの刑に処せられる。
 文化13年(1816)5月、母間(ははま)の村民630人名、不当な税金に対する不払いに立上り、集会して役人の非を鳴らす。藩吏、指導者の喜玖山を、談合に応ずると偽っておびき出し、捕縛して水牢にぶちこむ。6月9日、激昂した村民、竹槍、カマ、ナタ、魚突き等を手に手に役所を襲撃、喜玖山を救い出して気勢を挙げ、15人の代表をえらんで藩に直訴をこころみたが、不遜の所為であると逆に入牢、"情状酌量"のうえ死罪だけは免がれ、遠島に処される。藩吏、地役人にはおとがめなし。
 元治元年(1864)3月末、代官の寺師次郎右衛門、きび横目(監督官)の義美屋(ぎみや)に地方巡回を命ずる。地役人義美屋、犬田布百姓為盛の娘に横恋慕、手きびしくハネつけられたことに遺恨を抱いていたので、砂糖を隠していると寺師に報告した。代官は為盛を捕えて、同村の寿福宅の庭で石抱きの拷問にかけ、その無惨な姿を見せしめのため村人に公開した。もちろん、はじめからない砂糖が出てくるはずもなかった。ついに為盛は衆人環視の中で責め殺されてしまった。村人たちはいったんひきあげたが、まもなく豆穀打ちの棒を持って集まり、寿福宅を取り囲んで

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