竹中労 14/20

 朽つるものにて蒔かれ
 朽ちぬものによみがえりし
 卑しきmのにて蒔かれ
 栄光あるものによみがえりするなり……

 ユミヌ・チョンダラー人形まわし三段目の外題、切支丹伴天連はギレンの疑獄−−元和8年(1622)、石垣島の津沖に南蛮船海難漂着、当時の頭役、本宮良親雲上(もとみやらペーちん)これを救助して食糧と水を贈る。
 ……本宮良は代々貿易を業として、薩摩に停止されるまで諸国に船を出しておりましたから、もとより南蛮に隔意はございません。たまたま同乗していた宣教師(ぱあどれ)と、親しく往来する間に、キリスト教に深く帰依することとなったのでございます。ある日、門中の墓の境内に村人を集め、本宮良はおのれが信仰に入ったことを告げ知らせ、今日よりは天なる国に属する我らは兄弟であるといい、屋敷、田畑、漁網、船楫、ことごとく部落の共有とすると宣言いたしました。
 百姓たちは驚き、かつ喜び、一人のこらず信者となり、またひそかに他村の知己友人を礼拝・集会に誘い、キリスト教は早い勢いで石垣全島に波及したのでおじゃります。とりわけて、純情一途の若者たちはおのれの村の地主・頭役に本宮良親雲上のように私財を解放することを迫り、あちらこちらに不穏の動きが高まって参りました。島長筆頭の石垣親雲上、大いにあわてて首里に急便を送り、一揆謀反の惧れありと報告、王府はただちに柏氏小禄親雲上(かしわしうるくペーちん)を検察使として派遣、真相の調査もクソもあらばこそ、いきなり本宮良をひっくくり、一統を片端から逮捕してしまいました。そのさい、石垣一の美女とうたわれた本宮良の妹を、やはり頭役の一人である大浜親雲上が強姦してくびり殺すという、無残な事件がおこっています。
 首里に護送された本宮良一統は、5年間も牢ぬぶちこまれたまま、裁判もひらかれず寛永7年(1630)に至って、「焚刑」の一方的な判決が下り、石垣島に送り帰されて新川村で十字架にかけられました。さらに、その家族・子弟数百人が、波照間、与那国へ遠島流刑に処されたのでございます。これが琉球における、キリスト教の伝道のはじまりであり、殉教のはじまりでおじゃりました。
 チョンダラー伝え聞くところによれば、首里王府としては本宮良親雲上の謀反を立証することができぬばかりか、逆に妹殺しの一件が暴露するなど処置に窮して、“邪教”信仰という理由をこじつけたのだと申します。長崎島原の乱がおこったのは、それから7年後の寛永14年(1637)10月、切支丹法度が薩摩から正式

-75-