竹中労 13/20

告発し得ぬ、階級的視点の欠落にある。
 尚貞王なんてもな、人間的にも実にダメな男で、奸婦真加戸樽金(まかとたるかね)のケツに敷かれっ放しであった。先妻の葬式のときに涙を流して、お妾の樽金に、満座の中でシラガーハジェーネン!(白髪頭のはれんち爺ィ)と煙管で頭をぶたれたり、単に色ボケておったのだ。こういうラチもない助平王を、後世史家なるものは、文芸復興の英主と天まで持ちゃげてしまうんだから、正史というものは講談より始末が悪い。
 −−琉球弧に真人民の理想郷を樹立するためには、まず一切の既成の史観を“総括”しなくてはならない。
 チョンダラー先刻よりうだうだと、琉球の昔話し、木偶舞わしの芸能者風情が半可通のそしりも恐れずと、どなたもこなたもお思いだろうが、ヤツガレそんじょそこらの学者と称する先生方より前後(あとさき)見えマス、柳田国男、折口信夫、ついでに谷川健一、糞でも召上りませ、説き来り説き去るチョンダラー史観のひとくさり、一見ハナ唄まじりのごとくなれども、琉球1000年の時空を踏まえ万巻の書物を渉猟した歴史哲学の背骨、ズンと筋を通しているのでおじゃりまするぞ。
 隣(とない)ぬ耳切(みみち)り 跛引(ぐぬち)ち猫(まやー)が
 目剥(みは)ぎ首白(くびしるー)ウエンチュ(鼠)に
 顎玉(あらかじ)喰われてィ 呼(あ)びらじ叫(う)らばじ
 飛(とう)ぬがじ 思(うみ)入りや!
            (京太郎・うふんじゃり節)
 うふ・んじゃりと読んでいただく、つまり武者(ンジャ)の親玉(ウフ)、りは接尾の強調である。勇猛なるンジャ猫、窮鼠に噛まれてびっくり仰天、ハテこんなはずではなかったがというおかし味、京太郎の演目の中で最も庶民の喝采を拍したのが、ドラネコ(ハーマヤ)合戦の一幕、百姓が首里王府の収奪に満足していたと? 笑わかしちゃいけませんやね。

 我らは飢え、渇き、……また裸となれり
 また打たれ、定まれる住家なく
 今に至るまで世の塵芥のごとく
 萬(よろず)の物の垢のごとく為られたり
        ×
 日の栄光と月の栄光とあり
 されど、此の星は栄光を彼と異にす

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