竹中労 12/20

海を奪われ、貿易で国を維持することができなくなった琉球に、再び自立の曙光を済ませたもの、それは甘蔗という換金作物でした。このように、人々は餓えを武器として、ユートピアに近づこうとするのでございます。
 「沖縄は経済的に独立不能の宿命を持つ」などと、タワゴトをおっしゃいますな。
 もし、この琉球に王というものや、政府というものがありませなんだら、人々はとうの昔に、桃源郷を創っていたにちがいないのでございます。製糖の発展で、ようやく豊かな暮しこの島におとずれようとしていたとき、首里王府はとつじょ糖業国家管理=専売制を布告した、表むきの理由は“官民一致による産業振興”だが、内実はお粗末チャリン、正保3年(1646)、当間親雲(ぺーちん)上重陳てェお人、真相を誌したメモを残している。このペーチンなるものは、第2次世界大戦後の“親米かいらい政府”で主席をつとめた当間重剛のご先祖、……話はできすぎちょる。
 さて、ユミヌ・チョンダラー人形まわしの二段目は砂糖欝金(うこん)仕上げ世始めのからくり、慶長の役に敗れてより琉球国窺之、薩摩から銀子9,000両ナリを借款して、6カ年の期限で返済する約束でおじゃった、ポロンポロン。ところがこれが返せない、そこで王府の高位高官、鳩首協議の結果あみ出しましたるからくり、“専売制”すなわち農民にキビ栽培を義務づけて、それを低廉に買上げて薩摩藩に貢納すれば、たちどころに借金返済オツリがくるという仕掛け。尚農王治世(1621−1640)すでに生産870,000斤、そのうち720,000斤を貢納、下って尚貞王(即位1669)の時代には3,330,000斤と大増産の拍車をかけ、そのほとんどを薩摩に運び金に換え、琉球史家のいう“第二期黄金時代”の歓楽に酔い痴れて候、スチャラカチャカポコ浮かばれないのはいつでも下々、汗水(あしみじ)流して牛馬(うしうま)の扱(あち)け、「生活程度の低い農民は王府が買上げてくれる価格で満足していた」(沖縄黒糖文化史・源武雄)
 尚貞は明君だっただと……、おふざけじゃないよ、サン・ジュストのいうごとく(人は罪なくして王たり得ない)、百姓粒々辛苦の上にあぐらをかき、御茶屋御殿なんてものを拵えちょって馬鹿旦那、「豊葦原(日本)の池の坊よりつたえし立花投入の数々、心の花の匂いをうつしていとめずらか、或は利休居士の流れを汲みし茶の湯、礼式正しくして尤もおごそかなり、或は囲碁、象棋、勝劣のくらべ、糸竹音楽の妙、その外さまざまなる芸能叡覧ましまして終日の御佳興、たぐいもまれにぞ聞こえける」
 いい気なもんじゃァございませんか、砂糖を売って遊興三昧、甘い生活とはこのこった、いうならば首里王府総体、琉球人民に対するハーマヤと化し、薩摩の“黒糖地獄”政策を呼び込んだのである。チョンダラーつらつら思うに、琉球史家の決定的錯誤はみずからの内なる買弁、第二尚氏歴代の王を大和薩摩の“共犯者”として

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