竹中労 11/20

 1.薩州の指示以外に明国への注文を停止(ちょうじ)のこと。
 1.商取引きはすべて薩藩免許のこと。
 1.琉球からの他国への船を出さぬこと。
 ……海洋国家の根幹である貿易権は薩摩の管理するところとなり、“半独立国”の名目だけを与えられ、対明貿易の利潤のすべてを吸い上げられる仕組みと相成る。
 だが、くりかえしていう、植民地隷属の歴史は誰の上に300年の苦惨をもたらしたのか?
 元禄11年(1698)、薩摩は砂糖増産政策を奄美・琉球諸島に布告して、いわゆる“黒糖地獄”のどん底に島人を突き落した。米をつくるなキビだけつくれ、黒糖一斤に玄米2合6勺を与える、とりわけ直属領地である奄美諸島における収奪、言語に絶するものがあった。
 凶年はソテツの実を喰らい、ソテツの実を喰い尽すと、山に分け入り阿檀の実を探し、イチュビ(野苺)を採り、それも食い尽して阿檀の木に首を吊って人々は死んでいった。野苺の季節になると、山野に幽鬼さまよって怨歌をうたった。
 イチュビ山登(ぬふ)てィ イテュビ持呉(むちく)いよ
 アダン山登てィ アダン持呉いよ
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 我達(さした)、生首の木枝(くんち)が掛けてィら
                  (柳田国男・海南小記より)
 薩摩藩士よりも、“地役人”の方がむしろ残忍であった、と口碑は伝える。「ハーマヤ(山猫)がやってきた、こんどはどこの家の鶏が捕えられることやら」という意味の諺が奄美に残っている。ハーマヤとはすなわちトラ(薩摩)の威を借るネコ、ここにも柳の枝に猫がいた……。
 “黒糖地獄”はくりかえして、幕末にまで及んだのである。一つのエピソードを記して置こう、慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いに勝利した西郷吉之助のもとに、軍資金.0,000両が届けられた。持参した大阪薩摩藩邸留守居役の木場伝内から、さらに140,000両の黒糖売掛金があるという報告を受け、西郷は「幕府との戦さはこいで勝ちもした」と膝を叩いてよろこんだ。(南日本新聞社・鹿児島100年)
 −−維新の勝利、このかげに奄美・琉球の島ちゃび(離島苦)、生き地獄の労働があったってわけ。チョンダラー流れ旅、ずいぶん巫山戴た話を見聞きしてきたけれど、“黒糖地獄”の楽屋裏ほど醜怪無惨なからくりてェものはございませなんダ、よろしいか、耳の穴を掻っぽじって、まあ聞いてやっておくんなさいまし。
 元和9年(1623年)、儀間真常という農学者、荻(甘蔗)の茎から黒糖を製造する実験に成功、サトウキビの栽培を琉球全島に普及奨励したのが事のはじまり。20年後、製糖は琉球第一の産業となり、輸出も一位を占めたのでございます。

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