竹中労 10/20

人形振り一巻の終りとござーい。
 5月14日、国王尚寧以下100余名、薩摩に"謝罪のため"拉致される。しかし、「敗戦琉球国の王尚以下重臣に対して、島津藩はいささかも捕虜としてのあつかいをしませんでした」(川平朝申、琉球王朝史)
 「……6月26日、尚寧王は鹿児島にまねかれ、島津義久、義弘、家久の三公に対面、これまでの罪を謝して御馬代白銀千枚等々の宝物を献じました」「島津三公は、尚寧王一行を厚く迎え、罪を責めず、むしろ度々饗宴をもよおして旅情を慰めるなど、戦勝国とも思われぬほど温情のあふれるものがありました。江戸に上っても徳川幕府の歓待を受けて、思いの外の好意に一同感泣したのであります。」
 待ってたエイ、柳の枝に猫がいる、だからネコヤナギ、それでいいのだ……、(およそ一国の植民地化は、その社会内部にコンプラドール(買弁層)をつくり出すことなしには達成できない)。慶長16年8月9日、島津家久は江戸から帰った尚寧一行に、近々検地完了次第、帰国を差許すと内示した。「一同手の舞い足の踏むところを知らず」ウハウハよろこんで、「いかな御仕置に屹度違背致さぬ事」を誓約したと思いねェ。
 9月10日、家久は尚寧王に知行目録1通を授け、悪鬼納(おきなわ)諸島を89,086石として5,000石を王家の歳入、余は高官で配分せよ、但し、一石につき粗米9升2合の上納を課すと通達した。また奄美大島、喜界、徳之島、沖永良部、与論の諸島を薩藩直轄とし、琉球王国から奪った。
 さらに、芭蕉布3,000端、上布6,000端、下布10,000端、はじめ唐芋1,300斤、棕梠縄100房、牛皮300枚等々の毎年貢納を決め、尚寧以下子々孫々まで厳守する旨の盟約書を差出してようやく放免。一人、謝名親方のみ最後まで連判を拒んで斬首される。
 ジャナヤサバカランド
 サバカリーシャ イッターヤマトウ
 サツマヤンド
 ……謝名を裁くことはできない、侵略者であるお前たち、大和薩摩こそ裁かれねばならないのだ。
 9月19日、尚寧王帰国の途につく、さてそれからというものは−−

 稼(か)しゅてんしゅてしゅてィん
 誰(た)が為どなゆか
 大和衣裳(やまといちよん)着(ぎ)り奴(や)ぬ 為どなゆる

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