竹中労 9/20

その日から300年間……、かれらの子孫が薩摩のために半奴隷の境遇に追いこまれることを、知っていたか、知らずにいたのか?戦争どころか抵抗らしい抵抗一つせずに、無条件降伏してしまうとは何たることであろうか」(沖縄歴史物語)
 異議ありとチョンダラー申す。そいつは当然というべきである。首里城中にいたのは王侯貴族第二尚氏の安逸に腐れ果てた劣紳ども、肝ッ玉最初からツブレとる、どうして闘うことなどできよう。まちがえては困る、“半奴隷の境遇に追いこまれる”のは琉球の人民である、貴族の子孫ではない。伊波普猷『古琉球』をはじめ、王朝史としてかかれたなべての歴史物語を俺は否定する。
 俺はユミヌ・チョンダラー、……化けても出られぬ奈落の旅人、道化衣裳に身を包み、面垂(みんたりー)で顔をかくした夢の木偶舞わし、オエラガタにあてこすって申そうなら、首里城明け渡し金持ちケンカせず、悲憤慷慨するほどのこたァないんだ。そもそも慶長の役=薩琉戦争の勝敗は火器の優劣で決まった、ポーヌシャチカラビヌンイジティ、原爆をくらった第2次大戦のニッポン低国とご同様、無条件降伏ギブアップ。
 敗戦の弁解までそっくり、「無辜の民章をこれ以上殺傷することは忍び難い…」
 そらぞらしいことを! とチョンダラー怒りを燃やして言う、『島津家征琉筆記』によれば薩軍の戦死者58名、対して琉球軍531名、内官軍(王府正規兵)8名とある。この統計には、非戦闘民間人の使者は算えられていない、あくまでも闘って斃れた者のみである。王府の正規兵ではない戦死者とは、いったい何者か? それは各部落の義勇兵である。近代武器である種子ガ島銃に山刀、鍬、豆打棒をふるって立ちむかった、無名無告の戦士たちである。この真に勇敢であった人々を想え!「このような沖縄には志士は生まれない」(伊波普猷)等と、どうしていえよう?
 首里王府の中でただ一人、那覇の久米城で徹底抗戦して、ついに捕らえられた謝名親方(じゃなおえかた)に殉じて、西・東・泉崎・若狭の4町義勇隊は全滅している。人民は闘った、自己の安全とひき換えに薩摩に国をわたしたもの、鉄砲玉くゆすど我お主の腰ヌケは、誰あろう琉球の支配者どもであった。
 もともとこの戦争は、豊臣秀吉挑戦征伐に兵糧を差出せと命じられた琉球国が、大明に気がねしてこれを拒んだことからはじまる。島津藩としては、何とか口実を設けて琉球を侵略するべいと虎視タンタン、機会を狙っていたんだから好機を見逃すわけがない。それ突けやれ突け、当リーイと攻め寄せてきたんだわサ。するてェと、官軍僅か8名の戦死でオープン・ザ・ゲイト、大久保清に犯された女の子たちだって、まちっとジタバタしたにちがいない。手前からホイさっさと下穿きを脱いで、ホーぬ口ふらち(オメコぱっくり)ときたもんだ。コミック・ストリップ、

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