竹中労 8/20

14年(1609)に薩摩島津藩が琉球に侵攻する直前、俺たち傀儡子30名が間謀(スパイ)として潜入したという。殊さらキョータロー(京太郎)と名乗って目的を悟られぬようにゆるまい(1)遊芸にかこつけて琉球各地を行脚し地理を調べた、(2)王族や武将の邸内に演芸者として出入りし動静を探った、(3)那覇泊港の南岸に住みつき薩摩交易船を暮夜ひそかにたずね、三重城(みえぐすく)(城の入口を扼する)の防禦の固さを報告して、侵略のさいは北方運天港をえらぶべきだと指示した、(4)運天港から首里までの道案内をした、(5)戦後も居残り隠密の役割を果した、ウンヌン。
−−話としては面白いが、そいつは冤罪(ぬれぎぬ)というものだ。京太郎という名前は、室町時代からちゃんとあるんで、ようするに京太郎を主人公とする筋立ての人形芝居を演るから、チョンダラーなのである。え、そんな具合に言っちまったんじゃ、実もフタもないと? 独り言だ、うっちゃといてくれ。だいたい“人籍に登録せられざる”俺たちにとって、まともな歴史なんざあるものか! 琉球まで流れていったのは、つまり“流れる”ことが俺たちの常態だったというだけのことよ、始めっから国も家もないのさ、「都会人よりすでに飽かれて、次第に遠く地方へ落ち延びなければならなくなった。人形を持って遠く琉球に流れ着いた者、今も首里郊外の行脚(あんにゃー)村(安仁屋)在に、チョンダラーと呼ばれ残存しておる」(昭和11年3月、福岡県学務部発行“民間演芸”第三)
 これが正解だな、「ともあれ、江戸の初期あるいはその以前において、傀儡子が琉球にまで渡り、これらの芸を売っていたことのみ知ればよいのである」(同)
 チョンダラー人形まわしの一段…、時はいつなんめり、慶長14年如月の26日、樺山権右衛門久高を総大将として、薩軍3,000余りを100の兵船に分け、南蛮渡来の種子ガ島730挺を載せ、琉球王国攻めに討出てけり。春は弥生の3月4日奄美大島の蛮将笠利(かさり)の大親真牛(うふやもうし)を降し、徳之島より沖永良部へと当るを幸いブッ放しブチ殺し、鉄砲玉のその勢い、目ざましかりける次第なり。デンデデン、デンデン。
 3月25日、運天港外に至る。副将水軍総指揮平田太郎左衛門増宗、1隊を今帰仁に掲げ北山城を襲う。城兵、種子ガ島の乱射に恐慌、一戦も交えずに敗亡。
 ぼーぬしゃちから びぬんじてィ
 わがばなや いりぶがちねらん
 ……棒の先から火花が出て、俺の鼻をブチぬきやがった!
 踰えて4月1日、薩軍本隊は山林・人家に火を放って焼き払いつつ、ひた走りに首里に向う。3日、既にして王城を囲む。5日、王尚寧は城外に出て和を請う。
 「首里城中では、すべての人々が息を殺して事のなりゆきを気づかっていた、

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