竹中労 6/20

重税撤廃の要求を掲げて攻め上り、石垣島に立て籠って首里王府からの独立を宣言した。3,000の官軍これを伐ち、アカハチたちは死狂いに闘って全滅したという。
 尚真王、まやかしの“戦争放棄”、この乱の後に属する。
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 尚真即位30年、ようやく明国は1年1貢を許す、46年またしても2年1貢に逆戻り、このころのポルトガルは西洋・印度の物貨を中国の沿海にもたらし、日本また堺・博多の豪商は大船を仕立てて直接対明、対南貿易を開拓、さらに倭冦の跳梁を相俟って、琉球貿易は衰退の一途をたどった。しかるにボケナス王は、日本から坊主(日秀上人)を招いて妖怪の調伏をさせたり、エビス大黒を祭ったり、晩年はヤマトかぶれに老い呆けていたのである。
 後年の薩摩侵攻の原因、尚真がつくったといえる。何が名君であるものか!時代は末期に退廃の徒花を咲かせる、もっとも撩乱と錯覚させるその治世は、琉球人から進取の気象を奪い去り、海洋独立国としての主体を腐蝕、喪失させた半世紀であった。
 琉球史をこのように見ることから、我々は出立しなくてはならない。ユートピアとは、人々をしてその分に処らしめ(すなわち処分である)、制度と秩序に疑いなく隷従して、「ものくゆすど我を主」−−ただ満腹すればよしとする、愚者の楽園か? そうではあるまい、伝説の古宇利島に天降った少年少女、月から降ってくる餅を労せずに喰らっていたときではなく、餓えを知ったときからユートピアへの旅は始まったのだ。まぼろしの琉球共和国への遥かな道は、人々が餓えを武器として波濤を越え、小さな丸木舟で汎アジアに津梁(橋)を架けた、太古の苦闘に理会することからひらけるのである。
 おお、踏まれて光り輝くものよ
 眠っているようで目覚めているものよ
 死んでいるようで生きているものよ
 神に祭られてはいないが
 おれたちの魂の奥城(おくつき)に
 不滅の神殿を建立させるものよ
        (伊波南哲、オヤケ・アカハチ)
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 沖縄日本ではない、すくなくとも第一尚氏時代まで、琉球はヤマトの政治圏にも、経済圏にも、文化圏にも属さぬ、一個の海洋独立国家だった。ニッポンへの隷属は、

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