竹中労 5/20

先朝ニ受クト称ス。ソノ事ナシ、内庫ニ没収ス。
 三年、礼部(入貢官)奏シテ言ウ、琉球ハ毎年入貢スル故ニ、奸幣ヲ生ズ。二年一貢ヲ命ゼラレンコトヲ乞ウ−−
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 尚真王(1477〜1526)、−−歴代第一の名君といわれる。寺院を建立し墓陵を築き、道路を整え橋梁を架け、庭園、泉水、花壇を造成して、壮麗丈美の首里王府を都市計画した。さらにまた、紡繊維、染色、工芸を育成発展させ、音楽、舞踊を文教政策として奨励した。「尚真王時代の文化をわれわれは琉球の歴史の中で、最高の、そしてもっとも撩乱たるものであったと考える」(沖縄歴史物語)
 敬愛する老学究、浅学ぶらいのジャーナリストに、琉球史の眼を開いてくれた独立論者山里永吉氏に、異議を申立てるのはまことに忍び難いが敢えていおう、私はそのようには考えない。むしろその逆ではないか、「ものくゆすど我お主」を“民主主義”にこじつけたり、尚真王治世50年の“繁栄”をユートピアと観ずる思想では、平和憲法、経済大国ヤマトへの復帰を拒否することはできない。琉球独立、−−真善美の理想郷のまぼろしを過去にしか見ぬものは、しょせんロトの妻である。
 「エホバ、硫黄と火を天よりソドムとゴモラに雨(ふら)しめ、その邑(まち)の居民及び地に生るところの物を尽く滅したまえり、ロトの妻は後を回顧(かえりみ)たれば塩の柱となりぬ」
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 史上最低の国王であったと、尚真王を規定するべきなのだ。この馬鹿王は、ポルトガル進出でアジア貿易の主導権を奪われていく、きびしい情勢をかえりみず、豪勢な家を建てたり、池を掘ったりすることに凝り、華美な織物や陶器を愛で、美女の膝を枕にチクトンテンと歌舞に明け暮れて、(おや)が貯えた財産を蕩尽してしまった。
 単なる遊び好きの阿呆なら、まだ摘すべきところがあるが、この王は父(尚円)の血をひいて、きわめて狡猾でもあった。各地方に割拠していた豪族を首里王府に集め、居宅を与え、位階と勲等を与え、連夜の宴を張り、酒と女と歌と踊りで骨ぬきにして、「吾々は永久に戦争をしない」と誓約させた。かくて一切の武器を国庫に納めさせ、反乱の憂いを絶ったのである。……
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 名君とうたわれる尚真王の治世、けっして人民のユートピアではなかったことを明応9年(1500)八重山におこった遠弥計赤蜂(おやけあかはち)の乱は実証する。
 −−琉球弧最南端の波照間島、太田竜風にいえば辺境最深部から、アカハチのひきいる反乱軍は、彼ら農民の信仰であるイリキヤ・アマリ(火食神)祭りの復活と、

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