竹中労 4/20

 他日、必ズ億兆ノ上ニ座セント
             (球陽、巻の三)
 金丸、安里の出会い、とうぜん後世の御用史家のでっち上げ、いずれにもせよ、2人が共謀して王権簒奪のクーデターをたくらんだことには、まぎれもない。
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 21歳の若さで王となった、泰久第三子尚徳は、「資質敏捷、オカ人ニ過ギ、知謀ヲ自ラ用イテ」(中山世譜)、鬼界ガ島征伐をはじめ、武断政策を次々と打ち出した。老臣金丸を遠ざけ、安里大親の泊港の“利権”を取上げ、旧体制を打破していった。
 琉球王朝代々の諸王の中で、私はこの青年尚徳王を最も愛する。−−彼はまた、恋多き若者でもあった、久高島の祈女(のろ)クニチャサを愛して、首里に帰ることを忘れている間に、金丸、安里のクーデターはおこり、尚徳王は辺境に憤死した、行年29。
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 “革命党”は王城に乱入して、(尚徳の)王妃、世子、王族を虐殺、ただちに世の主をえらぶ選挙の大会が開かれた。この時、金丸と親交を結んでいた安里大親神がかりして、「ものくゆすど我お主」と謡い出し、衆みなオーサレーと和して、金丸を王に選挙したのである。(伊波普猷)
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 食喫(もぬくい)ゆすど吾お主(わーうしゅ)……、食べさせて下さる方が支配者であるという意味、「生活を楽にして下さる人を、国王に推戴しようというのである。いってみれば、“人民の為の人民の政治”をする者を選ぼうというわけで、現在の民主主義の精神といささかも違っていない」(山里永吉、沖縄歴史物語)
 そうだろうか? 琉球史家は、このまるで絵に書いたような陰謀劇を、老獪な政治家と呪術師のクーデターを“革命”といい、“反軍国主義”の義挙であったとする。
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 琉球の“黄金時代”は、第二尚氏(金丸は即位して尚円と称した)によって招来されたという。俗説採るべからず、海洋独立国家、琉球滅亡の悪しき種、このとき蒔かれたのである。『球陽』巻の三を見よ、尚円即位後、明国は再三にわたって琉球進貢(ちんくん)使の汚職を摘発、貿易に制限を加えている。
 尚円即位元年、琉球貢使程鵬、福健ニ至リイ委官指揮ノ劉玉ト私通、貨賄セリ。
 2年、長史蔡環ヲ遣ワシテ、尚徳王ノ薨(*死去)ヲ朝(明朝)ニ訃告、兼ネテ(尚円の)襲爵ヲ請ウ、トキ、蔡環ヲ窃カニ錦衣ヲ製ス、刑部(監察官)コレヲ鞠スニ、賜ヲ

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