前原朝賢 1/4

 5・15について

評論家     
前 原 朝 賢



 歴史に、くぎりがあるとすれば、それはすべて支配の構造の変化がもたらすものである。5月15日もそういう範疇でいうところのくぎりであるが、そのくぎりめ、5月15日とは簡単に表現するならば、世界帝国主義内の権力のバランスが、此処琉球において米帝から日帝へ移ったことを意味し、それ以外のないものでもない。
 ここで誤解のないようにつけくわえるならば、米帝も日帝も世界帝国主義の一部分としてあり、そういう意味では帝国主義に歯向うものにたいしては、協力一致して対処するものの、だからといってそれぞれの利害関係をわすれるようなことはない。それぞれ自己の勢力圏をのばそうと必死である。
 奄美諸島をとりかえし、小笠原諸島を手に入れ今又、沖縄県の実現をみた日本帝国主義は昔日の大東亜共栄圏をエコノミックアニマルというオブラートにつつみ、じりじりと自己の勢力をのばしつつある。
 それ故
 「日本国民」になることの意味とはすなわち我が、琉球が日本帝国主義の支配にくみこまれてそれの利益追求の為、有無をいわさず隷属させられることに他ならず、問題はすべてここから始まらねばならない。
 ところが、
 我が琉球には、地に足がつかず問題を観念の世界に遊飛させ迷路の闇にほうむりさろうとする人々が居る。
 このての人々は、施政権という名前の権力が我が、琉球人民の頭をとおりこしアメリカ合衆国から日本国へ委譲された5月15日を境に、その委譲になんらかの形で応援をしながらも、今その罪の大きさに愕然と色をうしない且つ、自己の罪を隠蔽しようと実に妙なことをいい始めている。
 今回はそのひとりである大城立裕氏にスポットをあてて論理をすすめていくことにしようと思う。
 さて
 私は、沖縄問題という造語について、それが何時頃できたのか、つまびらかにしないが、

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