大島渚 1/2

 琉 球 怨 歌 −−−−−−−−−−−−−−−−−

映画監督    
大 島  渚 



 私は1969年の暮れにはじめて沖縄に行った。行こうと誘い、そのための便宜をはかってくれたのは竹中労であった。
 私は田村盂、佐々木守と一緒に船で沖縄に着き、そこで竹中労とおちあった。
 私は漠然たる作品のイメージを抱いていないわけではなかったが、沖縄について一日もたたないうちに、私たち日本人が沖縄について語ることの困難さを、骨身にしみて知ることができた。私にとっては、そのことは正に不可能の一語に尽きた。ましてや、作品などというものは!
 思い切りのよい私は、だから、何とはない見聞の日々をだらだらと過した。それは主としてコザにおいてであった。私たちの泊っていたホテル・キョート。そのピンクの壁と分厚かったニューヨークカットステーキを私は今も忘れない。そこで私は、朝からバーボンのオンザロックを飲んでいたのだ。そのホテルキョートの真ん前で、いわゆるコザ暴動が起きたのは、それからまるまる1年あとだった。私はいつも世の動きより早すぎる!
 そんなわけだから、私は沖縄に帰って2年、何一つ沖縄について発言していない。たったひとつ、泡盛についての単文を筆した以外は。あとはただ、深夜新宿の泡盛屋で、時にはぶつぶつと、時には狂騒して、沖縄、日本ではない、沖縄、断じて日本ではないと、言うのみであった。
 川口秀子さんから、沖縄を主題に舞踊の台本を書いてくれと言われた時、だから私は、舞踊の台本など書いたことないどころかほとんど見たこともないという以外に、断わる理由がはっきりあったのである。にもかかわらず私は引き受けてしまった。これは不思議なことである。
 思うに、私があれほど不可能であると思っていた沖縄を主題にした作品を、しかも私のまったく未知な舞踊という世界で書く決心をしたのは、それが逆に舞踊だったからであろう。
 実は、沖縄へ渡った時、私がひそかに抱いた作品のイメージは、沖縄人と黒人による暴動のミュージカルだったのであった。

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