大城正男 17/19

に何が出来る。僕らは革命を志向するのだけれども、決して革命マシーンではない。
 革命もまた人の成せる業である。人間の情けを理解する者とのみ、僕らは連帯するであろう。それを理解する者、この指とまれ、ちょっと私情が入りすぎたかな。
 同じく、底辺に切り捨てられた民衆はただちにこの涙を、感性にて理解するだろう。
 ウーマンリブの姐ちゃん達と違い、彼女達は普段から「あたしは売春婦だ」などといいわしない。それを言うには言うだけの要素がなければならない。従ってそれを言わしめる情況にまで追いつめた、あるいは問いつめたN・D・Uは僕個人の感情としては嫌いなんだけれども、それが為「モトシンカカランヌー」はドキュメンタリーとして、成功しており、「それは島」に比べ、一点突破している。
 それ故に、「なんで人を売春、売春って言うねえヒャー(このヒャーという言葉は、シナリオにはなかった言葉だが、映画を観た感じではこのヒャーを付け加えておいた方が、すんなり全体の意味がよくのみ込めるので、実際に使われたかどうかは別にして、気ままに付け加えておいた。)、シャラップヒャー。」と彼女をして言わしめることになるし、続いて「ヌーガ、ワッサミ」ということになる。
 ここで気をつけておかねばならないもう一つの問題が残っている。
 沖縄が日本から差別されたとはいえ、差別は一通りでない。差別には二重三重の構造があり、沖縄人が日本人に差別されたことと、「モトシンカカランヌー」の彼女達が差別されていることとはまた違う。
 沖縄人として我々は差別されたが、その差別された沖縄人の市民社会に属する者達にも彼女達は差別された。中には混血の彼女も居て、差別はさらに輪をかける。
 いい悪いは別にして、「祖国復帰運動」は、沖縄においては一種の行事であり、島民こぞってのお祭りであった。4・28のデモや、海上集会などといい27度線上で交歓するさまは、形骸化はしていたが、とにかくあれだけの人間が関心を寄せるお祭りであった。新聞、ラジオのニュースでそれに類するニュースのもれた日がなく、その島民こぞってのお祭り、つまり日本テーコク帰属運動であったにしても、とにかく日本本国に対する沖縄人という設定のもと、沖縄総体としての運動であったにもかかわらず、それからも彼女達は切り捨てられた。そして、復帰問題になり、やっと彼女達に関する議題が出たかと思ったら、形式だけの売防法通過である。
 これはさらに彼女達を下降せしめる以外の何ものでもない。
 米軍撤兵後の基地労働者の問題、工業誘致の問題、口先だけのやりとりにあけくれ、

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