大城正男 16/19

拡大解釈して、どうのこうのと言ってるヒダリの諸君は、今一度自己批判し、謙虚にこのパラドックスの意味を読み取るべきだ。
 そして、論理の帰結として辺境、底辺に生きる人間の、中央ないしは上に向っての開き直りを説く時、安易にこの上昇志向性を決めつけ断定することをさし控えよ。
 確かにおのおのの開き直りから、改めて権力へ受け手の攻撃がプログラムされる訳だけれども、この上昇志向性のみでもっての色分けは危険だし、またまた民意を離れた学生さん達と同じように理論のみの先走りに陥りかねない。
 底辺に生きる民衆は、復帰願望の可能性がわずかでも残されている場合には、たとえそれが一分に満たないものであっても、それを一筋の光明としてすがりつく。すがりついて蹴とばされ、さらに頼っては裏切られ、それが完全になくなってしまった時、はじめて「テヤンデー」と開き直る。ここに来てはじめて自分を差別した者、あるいは権力に敵対する己れを自覚する。
 このテーマに関する限り「モトシンカカランヌー」も同じものを含んでいる故、この際一緒に論ずる。
 「モトシンカカランヌー」で彼女達の一人は言う「結婚なんて考えない。」と。ところが実際には、何度も夢見たことであろうし、はじめからその気でいた訳でもない。人並みに結婚したいと思うのが人情であり、そういう情況故にこそ、切実に望んだに違いないのだ。人並みの生活をしていないが故に、人並みの生活をしている人間には判らない程、そのささやかな人並みのことを渇望するのだ。それが人並みから切り捨てられた者の人並みへの復帰願望、いわば上昇志向性であり、それが極度に追いつめられ、絶たれた時「人並みの生活など考えない。」と開き直り、アウトローに徹しようとするのだ。切り捨てられた民衆にはすべてが共通する。在韓被爆者然り、在韓日本人棄民然り、在日朝鮮人、部落民、山谷、釜ヶ崎住民、エトセトラ然りである。
 開き直る、言葉で言うと簡単だが、実はきびしく、つらくそして淋しいのだ。なまじというより、市民社会でのいく分かの情報が交差している地点に生きる者にとっては、上昇志向性を捨て去りアウトローに徹するということはたまらないのだ。「売春婦がなぜ悪い」と開き直る時のあの荘厳なる決意の裏に隠された涙を見ろ。
 この涙に気付かない者、あるいは、論理でもって切り捨ててしまう者、そういうヤカラとも僕は共闘を願い下げる。
 この涙に気付くこと、切り捨てられた人民の心情を察すること、こういうことを理解するのが、人間(ヒト)の情という。浪花節と笑う奴は笑え、人間の情けも知らない奴

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