大城正男 11/19
認識は外野の凡フライの様なもので、風でも吹くとライトへ流される恐れも十二分に含んでいる。「それでも生きている。」ということは、確かに製作者達にとっては、一つの感動ではあろうけれども、それはあくまで第三者の眼から見た感動であり、常に対象と一定程度の距離を保ってのそれであり、たぶん当事者達とは永久に共有し得ない感動である。
「それでも生きている。」という言葉は、今までその対象の側から発せられたことはなく、常に対象と一線を画して、カメラなり筆なり近代的表現手段を持った中央権力の側からの言葉である。
つまるところ「生きる」の製作者には、内実の欠落もさることながら、根底的に己れとドキュメンタリーと対決しようとする姿勢、いわば解体に向っての相互葛藤が見られない。
ともあれ、くどいようだが、後半のボインがしぼんじゃってナインになった、しわくしゃ婆さん達のカチャーシーは圧巻であった。僕は、沖縄の歴史は女の歴史だとも思っているので、あの女だけの踊りには圧倒された。マルチチャンネル方式にもまして、ダーイハクリョクなのだ。
次、「それは島」行こう。
こrは「生きる」と同様、同日四谷公会堂にて観た。映画が終った後、ティーチィンがあり、会場からの質疑もあり、製作者の答弁もあったのでそれにからませよう。
製作者の意見じゃないが、ティーチィンで、東宝「沖縄決戦」と比して、「センレツ(?)なるイメージが湧かない、従ってすでに現実に負けてしまっている。」と言った馬鹿が居たが、阿呆かこいつは、ゲンジュツと腕相撲でもやったかね、手前勝手に沖縄をイメージ化してしまいやがって、インテリと称するキッカイなヤカラの悪い癖だが、沖縄はどのようにイメージ化されようとも、あるいはされまいと、そんなことには関係なく沖縄のままで存在する。
爆弾の音が聞こえないから、血が大量に流れ出る所が見えないから、片手、片足がもげて飛ばないから、あるいは島民が、口に泡を飛ばして、己れの体験をしゃべらないから、今でも島民が恐怖に顔を引きつらして暮していないから、当時を回想するに十分なる残骸が出て来ないから「センレツなるイメージが湧かない。」とでも言うのかね、阿呆ぬかせ、島が風化し、島民が黙して語らないからこそ、なおむごいのだ。トクトクとして語れる残酷さなんてものの比じゃない。
こいつは「ケマダの戦い」を観ていないに違いない。ポンテコルボがサラリと撮った
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