大城正男 10/19

加害者の眼でストレートに、しかもそういうものを隠蔽ないしごまかしの作業(意味なく対象をもち上げたり、尊敬語で結んだりなど。)のもとに撮られていく、ここしばらくのドキュメンタリーの風潮を全く無視し(これを風潮と呼ぶには語弊もあると思われるが、他の言葉を知らない故、そのまま続ける。)こうも露骨に、オレタチが見たいんだ、オレタチが撮るんだという感覚でカメラが廻されたドキュメンタリーも珍しい。ナニ!そんなもんだよみんな、アッ、そうかね。ところが、一つのテーマを追っていた前半が全然面白くなくて、テーマを追い続けられなくなりヤケッパチになったのか、それとも休養の積りか、開き直った感じで撮った後半は少々面白く、前半のイラダチを解消するに十分である。もちろんこれは観る主体によって随分異なった解釈の出て来るシーンだと思うが、僕は結構楽しめた。
 オイラ、何はともあれカチャーシーが出て来るとうれしくてウキウキして来るから不思議だ。こういうものは理屈抜きで楽しめて、後半のみでなくはじめから「オールカチャーシーのシーン」だけでもよかったし、それに付け加えること、あと二本分の長時間でも僕は見続けていられたであろうと思われる。論理一切を超越し、そこにカチャーシーの世界を創りあげること、それも一つに意味あることと思われる。
 もう少し正確に言おう。
 見続けていられるのではなく自分も踊りたいのだ。その踊りの群の中に、その狂乱の渦の中に、飛び込み叫びたいのだ。そしてカチャーシーの世界を創り出すこと、すなわち秩序の混乱を、狂気の渦を、流動する民衆の怨念の噴出の環を創りたいのだ。それこそが、我々の最もめざす処のものではないか。
 但し、僕が勝手にカチャーシーにそれだけの意味を持たせているだけの話であるが、「生きる」の製作者の「カチャーシーのとらえ方」、そして「ウチナーンチュ(渡嘉敷島の人々)の生活は唄と踊りと祈りだ。」という認識には、いくらか内実の欠落した部分がある。
 カチャーシーに関しては僕自身、まだまだ暗中模索の状態故、竹中労氏が祈りにふれて、いくらか評論を試み、それを今回1冊の本にまとめたのでそれを参照してもらいたい。カチャーシーがどういうものか、だいたい判ってもらえると思う。
 「生きる」の製作者は「それでも人々は生きている。」という言葉でこのドキュメンタリーを結ぶ。ティーチィンで「映画は、ハッピーエンドで終らなければならないという確信を強くしております。」と補足しつつ。
 先程の「ウチナーンチュの生活は唄と踊りと祈りだ。」から「それでも人間は生きている。」に至るこの認識は、本人の自覚、無自覚を別にして危険だ。このような

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