大城正男 6/19

おきながら、裏で確実な計算の下に20数年間演出して来た訳だ。復帰協なんぞは己れがカイライであることも自覚出来ない忠実なるロボットであったのだが。
 ナッ! ナッ! この謎々は面白いだろう。
 よけいな形容や七面倒臭い理屈を取り除けば、実際単純すぎる程のこれまでの復帰運動の骨組みが透視出来る。我々はもっと早くに謎々遊びをすべきだった。但し、これは謎解きとしては面白いが、これが単なるパズルに終らないから問題はことさら深刻である。
 僕を含め、我々はこの単純な謎々も知らずに「復帰」「返還」「奪還」とめまぐるしく変って行く運動に振り廻されてはいなかったか。結局、中味は名称がどう変わろうと「復帰=日本テーコク帰属」でしかなかったのじゃないか。僕らもある時期まではそれに加担というか、むしろ割りと熱心に運動していたことは自己批判せねばならない。
 遅い、速いはすべてにファッション化した世の評論家どもの先陣争いに任しておいて、我々は気付いた時点から行動を起すべきだ。志を同じくする者よ、ウチナーンチュよ、改めて、一切の日本テーコク隷属路線と訣別し、新たに日帝に向けて再編せよ。
 5月15日以降もそう叫び続けて行くこと、運動、闘いを独立に向けて継続させて行くこと、それが最も大切なことだ。
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 先程、師範卒の言葉について述べたが、言語という問題に関連して、今少し琉球と日本との関係を考えてみよう。
 羽地朝秀(向象賢)が「ひそかに思えばこの国の人、初めて日本より渡りたる儀、疑い御座なく候。」なんぞと日琉同祖論を唱えて琉球の国史たる「中山世鑑」を著し、続いて蔡温のオヤジ志多伯親方(蔡鐸)が「中山世譜」を著し、そしてかの悪名高き(強調するようで変だけど、間違いのないように、悪名です。)ヤマトウベッタリの蔡温によって「中山世譜」が改訂され、以後日本の古語と琉球語を比較対照した「琉球語彙」を編集した宜湾朝保や沖縄学の父と呼ばれる伊波普猷あたりまで受けつがれ、今ではそれが琉球史の通説となってしまったものだから「本当に琉球と日本は別個な民族体なのだろうか、日本の万葉時代の古語と琉球の古い言葉とは確かに類似性がみられるし………やっぱり琉球と日本は同じ民族で同じ祖先を持つのではなかろうか。」等と宜う御仁が余りに多いんでその辺からちょっとつっ込んでみよう。

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