野底土南 15/23

 ここに新しい社会観、人民のものを預かる受託者階級と、そうせざるを得ない多数者である委託者階級との矛盾対立を意識する根拠がある。殊に今回のドル価格低落に、みられる価値収奪がどんなに巨額(2億ドル以上)であったか、また、このことの起るべきは、おそくとも68年3月には予見されたにもかかわらず、しかも、私が68年11月の主席選挙で訴えたにもかかわらず、琉球政府はもとより、金融機関の諸君までが、無為無策であったことは、これからさき、人民大衆の資金の受託者としての資質を疑うにじゅうぶんである。
 しかも、この収奪が抑圧者であるアメリカ政府の政策によって行なわれたこと、この収奪は、わが琉球のすべての階級にひとしく及んだことを見ても、自称労働者階級とする者は外部矛盾が内部矛盾よりも一層過酷であることを自覚しなければなるまい。併合後は、米日連合による抑圧と収奪がさらに拍車をかける。
エ 文化とは何か
 三もん文士やインチキ歴史屋どもは、やたらに文化を乱発するが、実は文化の真の意味を理解していない。「沖縄の問題は政治の問題ではなく文化の問題だ」とか「政治的独立はなくても文化的独立は望ましい」とか、ホザクとき、政治とは何か、政治と文化との関係について全き無知であることを告白しているのだが、当人は、その厚顔無恥と無知無能のゆえに平然としている。
 文化とは人類普遍の理念を求めて、これを実践する過程、または、その過程で培われた魂といってよい。
 分説すると、人類普遍の理念とは、世界史的観点に立って自分のよってたつ基盤−−すなわち、被抑圧民族である琉球民族の立場から民族の主権回復の大道こそ、人類普遍の理念でなければならない。何故なら被抑圧者としての琉球民族の地位は人類普遍の理念−−人民の同権と自決権に反するから。
 たんに理念をしゃべるだけでは実践したことにはならない。被抑圧者の地位から主権の地位に転化するためには、抑圧者から、その権力を奪いとらなければならない。これが政治の意味である。独立なくして文化なしである。
 文化上の地位の決定権は主権の地位から派生するのであって、決してその逆ではない。文化それ自体が主権の地位を離れて存在するものと夢想するのは歴史や国の本質に関する無知からくるものである。
 数年前までは、殊勝にも「琉球処分」や「醜い日本人」を告発した人たちが、最近の情勢の急迫につれて、恥ずべき「宿命論」や「文化論」を唱えるこんたんは

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