野底土南 13/23

 日本を祖国と呼んだり、古くは日琉同祖論、現代では「日本母親琉球乳のみ児論」となり、復帰運動の「理論」的支柱となったが、全く誤った非科学的奴隷の言辞にすぎない。
 さらに、ふえんすれば、日本の各県は東京政府の植民地であることはすでにふれたが、例えば北海道や九州の人民が東京政府の支配に抗して自から主権の地位を求めるとき、北海道民族、九州民族が成立する。このことからもわかるように、人種、言語、習慣、伝統の共通性は必ずしも一国を結果するものではない。
 要するに、一定地域の人民が団結して自分自身の国をうち建てようとするとき、その人民総体が一民族となるのである。
 わが琉球は日本の各県と本質的に異る。吾々の歴史が示すとおり、邪蛮の武力侵略併合による強制的皇民化によって、今日の「塗りつけられた日本人」意識がでっちあげられたのであって、しょせん架空のものにすぎない。それを示すよい証拠は、琉球人民は日本全体をヤマトウ、ヤマトンチュと区別する言葉であり、意識である。言語は正直なもので、民族の魂の発露である。民族語を忘れれば当然民族魂を失うようになる。民族語を「方言」と呼んで蔑視し、「方言罰礼」をもって、もの心つかない青少年の魂をむしばみ、地名や人名まですべてヤマト風に改めて恥じない邪蛮化教育が真人間をつくるはずがない。
 このように歪められ、つくられた人間がさらに歪められた人間を、拡大再生産する。30代から40代の自称「歴史屋」「文学者」の意識にハッキリ現われている。例えば、1879年の琉球処分を「上からの被民主的統一である」としてあくまで目先の復帰運動に便乗して恥ぢない。この歴史屋どもは用心深く、1880年(1879年の翌年)日清間に妥結した琉球分割併合交渉−−歴史屋どもはさりげなく分島問題とよぶ−−をかくす。その交渉は米国のグラント将軍を仲介者として日光で2〜3回明治天皇も出席して行なわれた。紆餘曲折の末、宮古以西は清帝国が、沖縄島以北は邪蛮帝国がそれぞれ併呑することに落ちついた。この事実を見ても1879年の処分は、あくまで、領土的野心に基づくものであったことは否めない。げんに井上清教授は、明治政府は琉球の独立を援助すべきだったと述べている。
 また、独立を時代逆行と独断するヤカラは、世界史の流れや琉球民族の歴史をしらないことを自白するものだ、この人たちをつくりあげた邪蛮化教育が実は、そうさせているのだが、本人は、それに気がつかない。

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