野底土南 1/23

 被抑圧民族としての自覚を
   −知行一致の哲理と実践を−

琉球独立党中央委員会  
野 底 土 南 



 本稿は、沖縄タイムス企画の「日本国民になることの意味」に応じて執筆したものであるが、結局、ボツにされた。予期したことではあるが、こんな売国新聞という媒体でも利用できればと思って骨身を惜しまず草稿したわけだ。だが、腐敗したマスコミ、世論をねつ造する常習犯のマスコミが愛用する、大城立裕、大田昌秀、新川明、川満信一等々のインチキ三もん文士どもが、どんなに、おしゃべりをくりかえそうと、内外の情勢、――ことに経済の破たん――琉日間の政治経済上の矛盾は一層尖鋭化をきわめる。その事実が、彼らのオシャベリ――有害で無思想、いや、売国イデオロギーをとことんまであばいてくれる。
 第II章中の文化とは何かは、主として、これら売国イデオローグに向けたものである。「類は類をもって集まる」とは至言である。売国マスコミと売国イデオローグ、三もん文士、インチキ歴史屋、買弁政治屋、等々。
 最近、大田昌秀という売国教員=三もん文士に「沖縄タイムス賞」が与えられたようだが、この賞とは売国賞である。屋良朝苗も、これを与えられたから、ますます、この買弁の類は今や花ザカリである。
 買弁といえば、保守の専売と思っていたら、最近では「革新」買弁がロコツに現われた。
 殊に、東京在の沖青同の「沖縄解放への道」――沖縄人民の権力を樹立せよ――の雑文に接して、その感を強くする。いちいち、とりあげるに値しないほど粗雑で、しかも、哲理も何もない代物だが、売国、買弁のしるしを探し出すのに恰好の雑文である。その例を引用しておく。いわく、
(1)……キチンと分類できるものとしての「沖縄民族」なるものは存在しない。吾々は、ハッキリと「沖縄人」として存在している。………
 ここでは、民族と人種の混同があり、琉球の民族問題――被抑圧民族の解放の歴史的課題をワザと回避しようとする。事実、こうもいっている。日米帝の間にあって、

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