琉球独立運動参考保存資料

月刊《望星》 2017年1月号 ジャーナル 三山 喬
沖縄戦後史の捩れを辿る(上)
−独立論の底流−

(敬称略)

 見果てぬ独立の夢

 事務所のドアを開けると、正面の壁に一枚の“国旗”が張り付けられている。「三星天洋旗」。まだ見ぬ民主的独立国・琉球のシンボルとして、半世紀近く前に考案されたものだ。

 上半分が淡い水色で下半分は群青色。沖縄の空と海を意味する二色の境目に、左から黄、赤、白の星印が並んでいる。それぞれ平和、情熱、道理を示しているという。

 ここは那覇市壺屋の商店街にある雑居ビルの一室。招き入れてくれたのは、政治団体「かりゆしクラブ」の代表・屋良朝助だ。二〇〇八年までは、よりストレートに自分たちの思いを表した「琉球独立党」という党名を使っていた。

 党の発足は、沖縄の本土復帰を二年後に控えた一九七〇年。当時、百貨店の新入社員だった屋良は、地元紙に大きく掲載された新党結成の意見広告を見て、未成年ながら結党メンバーに加わったという。

「出身は米軍基地が少なかった那覇市。基地被害と言われてもピンと来ない環境だったせいもあり、本土復帰運動にはむしろ、子供時代から反発していました。 小学校の先生は、生徒に日の丸を振らせ、提灯行列までやらせた。『政治運動に子供を使うのはおかしい』。 僕はそう思って参加せず、“天邪鬼”と呼ばれていたのです」

 高校生時代、独立論者だった画家・山里永吉の『沖縄人の沖縄 日本は祖国に非ず』という著書に出合ったこともあり、新聞広告を見て迷うことなく参加を決断した。

 このときの呼びかけ人は、琉球政府系金融機関・大衆金融公庫の元総裁という肩書きを持つ崎間敏勝や沖縄初の公認会計士・野底武彦といった人々で、事務所は那覇市内の野底の家に置かれた。屋良が最初に訪ねたとき、すでに三星天洋旗が掲げられていたという。

 野底は六八年、任命制だった琉球政府のトップ・行政主席が公選制になった際、その主席選挙に単独で挑んでいる。本土復帰運動を率いる沖縄教職員会の会長・屋良朝苗が二十三万票余りを獲得し、復帰に慎重だった沖縄自民党総裁・西銘順治を打ち破った選挙だ。“第三の候補”野底は激戦の狭間に埋没し、わずか二百七十九票を得ただけで終わった。

 独立党設立後、七一年の参議院選挙では、知名度の高いエリートの崎間を党首・候補者に押し立てたが、このときも二千六百票余りで惨敗した。

 「独立党の主張は、あの時代には早すぎて理解者はほとんどいなかった。米軍の支配が嫌だから本土に復帰する。みんなそんな単純な発想で、新聞もそうでしたから、野底さんも崎間さんも、泡沫扱いしかされませんでした」

 屋良によれば、党活動の実務は行動派の野底が、事実上、取り仕切っていた。屋良たち若手運動員は野底の運転する車に乗り、夜ごとポスター張りに明け暮れ たという。独立党初期の活動はその後、七〇年代終盤には休止状態になるのだが、屋良自身は七二年の復帰の年、こんな“足跡”を時代に残している。

 ちょうどこの一月に二十歳になった屋良は、那覇市での成人式“乗っ取り”を企てたのである。市役所に“新成人代表”として謝辞を志願して認められ、那覇市長のほか屋良朝苗主席らも列席する中で、自らの主義主張を開陳する大演説をぶったのだ。

「侵略者である日本を祖国と教える教育は問題だ。異民族支配を許し、(本土復帰という)第三の琉球処分を許していったのは指導者の無知、無能からくるものだ ……」

 翌日の地元紙は、この思わぬハプニングを大きく報道した。
「我々の活動はいつかきっと意味を持つ。当時から私はそう考えていました。将来、国連で沖縄の独立が論じられるとき、昔から沖縄には独立運動が存在した。そういう事実を残すことが、必ずやプラスになると信じています」

 屋良自身はその後、本土に移り住み、千葉県で衣料品会社の経営者となった。そして二〇〇五年、約四半世紀ぶりに故郷沖縄で独立党の運動を再開した。年老いた野底に会い、同意を得たものの、かつての同志は四散してしまっていた。それでも翌年の県知事選参加を皮切りに、千葉との往来を繰り返しつつ、県議選や那覇市議選に挑み続けている。

「最初はやはり泡沫扱いですよ。『馬鹿』とか『目立ちたがり屋』とか言ってくる人もいた。独立論の主張を理解できない“普通の人”にしてみれば、どうしても“変わった活動”にしか見えないでしょうからね」

 初出馬した知事選での得票は約六千二百票。内心、落胆も味わったが、「七一年の参院選の免疫がありますから、三日で立ち直った」と屋良は笑い飛ばす。
「そして私は『勝利宣言』を出したんです。だって、野底さんの選挙が二百七十九票、崎間さんが約二千六百票、そして今度は六千二百票でしょ。順調に票を伸ばす結果になりましたから」

 一四年、那覇市議補選での得票は、ついに一万票の大台に乗った。最近では遊説中、「頑張れ」と声援を受けることもあるという。
「議員として飯を食う目的でなく、あくまでも主義主張を広めるためにやっています。その意味でこの十年、沖縄の意識は大きく変わってきた。かつて復帰運動の中心にいた人たちまで、最近では独立を口にするようになってます。継続は力なり、ですよ」

 険しさを増すヤマトへの眼差し

 沖縄の基地問題は、近年なぜ、これほどまで大きな問題になったのか。それを理解するためには、沖縄戦後史の流れを押さえておく必要がある。この二年近く、 現地に通う中で私は強くそう感じるようになった。「オール沖縄」や「イデオロギーよりアイデンティティー」といったキーワードに示されるように、近年の現象は、支持政党を超えた地元意識の広がりにその特徴がある。

 いや、民主党政権下に生まれた超党派の政治組織 「オール沖縄」は、もう実体を失っている。基地を容認する側からは、そう指摘する声も聞かれる。

 確かに二〇一三年の秋、自民党沖縄県連は、米軍普天間飛行場を県外に移設すべしという立場から、県内移設、つまり辺野古移設も容認するスタンスへと路線を変え、超党派の戦列を離脱した。

 それでも、「オール沖縄」に踏みとどまることにした那覇市長・翁長雄志(当時)ら“保守分裂組”の決断は、革新・中道層ばかりでなく、少なからぬ保守層からも支持を集め、その翌年、翁長は新知事に選ばれたのだった。

 そう、沖縄県議会では目下、革新・中道の各党が与党を構成しているが、翁長率いる執行部は保守系の人材で固められ、県政の主導権は彼らが握っている。辺野古問題で自民党政権と対時しているのは、革新にも支えられた沖縄の保守県政なのである。

 本土では、この構図が十分に理解されないため、反基地=革新・サヨクの運動、という旧来のイメージのまま、沖縄問題を見る人がまだ多い。

 現地で高まっている不満は、革新全盛期の民意とはかなり違っている。ひとことで言えば、不平等への怒り。安保云々の話でなく、沖縄一県に背負わされた重圧の理不尽さが県民に広く知れ渡り、地域ナショナリズムの感情が噴き出しているのである。

 わずか二年足らずの観察でも、人々の“ヤマト”への眼差しは、日を追って険しさを増しつつある。私はその変化を肌で感じている。

 そして改めて歴史を振り返ったとき、今回のアイデンティティーの高揚が、必ずしも突如現れた新現象ではなく、細々とだが県民意識の底流に常に存在し、戦後史の折々に見え隠れしてきたものだったことに気づかされる。

 もしかしたら、本土の私たち、あるいは少なからぬ沖縄人自身、「55年体制」と呼ばれた表層的なイデオロギー対立に長期間、惑わされていたのかもしれない。 沖縄では、思想的な分断とは別次元の心理として、本土との間に一貫して“心の溝”があり続けた。復帰以降の歳月も、その溝を完全に風化させるには至っていなかった。

 冷戦の終了から四半世紀を経て、“イデオロギーの雲海”が取り払われ、人々はようやく、そのことを自覚し始めたのである。

 沖縄の戦後史は、実に複雑な経緯をたどってきた。私は二十年ほど前、大田昌秀知事の時代にも沖縄取材をした経験がある。恥ずかしながら当時は、この土地の歴史にあきれるほど無知だった。そのことを今、改めて思い知らされている。

 あの当時、私が知っていたのは、ごく通り一遍の流れだけだった。
住民の約四分のーが死亡した地上戦の惨禍、米軍による戦後統治、その間に住民を苦しめた軍用機の墜落やレイプ、殺人事件などの基地被害、人々の怒りが爆発したコザ暴動、革新勢力による本土復帰運動と七二年の復帰実現、儚く消え去った「基地なき沖縄」の夢、九五年に起きた米兵による少女暴行事件と反基地感情の再燃、日米が急逮打ち出した普天間基地返還のプランと今日まで続く混迷……。

 せいぜいその程度だ。そんな浅薄な理解ゆえに、翁長知事の誕生をきっかけに、改めて「沖縄の保守」という存在に目を向けたとき、私の思考は立ちどころに行き詰まってしまった。反基地の保守政治家、という立場をどう理解すればいいのか。自分たちの歴史や伝統を重視する人が「保守」ならば、そもそも沖縄で地域アイデンティティーを担ってきた「本当の保守」と呼べる人は、いったい誰なのか……。

 本土復帰がもたらした“捩れ”

 米軍統治下の革新勢力は、本土への復帰、つまりヤマトとの一体化を掲げていた。日の丸は当時、彼ら本土復帰論者がアメリカ支配に抗うシンボルとして打ち振った旗だった。

 一方の保守陣営はアメリカとの融和を重視した。対ヤマトの関係でいえば、本土復帰に消極的立場をとり、“沖縄の独自性”にこだわったのは彼らのほうだった。

 そう、“琉球へのこだわり”は当初、保守の側に目立っていた。その背後には、日琉の分断を望むアメリカの思或もあった、と言われている。

 しかし、保革双方の立ち位置は、七二年の本土復帰を境として、劇的に入れ替わってしまう。基地の重圧を何ら解消しない“復帰の現実”は革新勢力を深く失望させ、失望はいつしかヤマトへの反発となった。

 逆に復帰前、あれほど沖縄の独自性を訴えていた保守勢力は、復帰以後、そうした主張をぴたりと止め、現在では自民党に残った人々が、独立論などを牽制する目的で、本土との民族的同一性を強調するようになった。

 このように、アイデンティティーをめぐる沖縄の戦後史を眺めると、そこには本土復帰がもたらした“捩れ”がはっきりと見て取れるのである。

 沖縄人としてのアイデンティティーが最も純化・先鋭化した形が独立論だとすれば、そこにはより明確に時代性が現れるに違いない。もちろん過去も現在も沖縄では少数派の意見だが、各時代の独立論はいったい保守・革新、いずれのサイドから発せられたものなのか。

 最近では、民主党政権下の二〇一三年、独立を公然と掲げる組織として「琉球民族独立総合研究学会」という研究者のグループが生まれた。メンバーはすでに約三百人。現在、独立論者の多くは、この学会に属している。

 「オール沖縄」の時代に誕生した独立学会に、保革の別を問うことは意味を持たないが、辺野古移設阻止を主要な課題とする彼ら個々人は概ねリベラルで、少なくとも保守分裂後の自民党沖縄県連の支持層と重なり合うことはほとんどない。

 その一方、冒頭で取り上げた屋良朝助率いる「かりゆしクラブ」の前身・琉球独立党の場合、創立メンバーは明らかに保守系の人々であった。
 沖縄タイムスOBのジャーナリスト・比嘉康文は〇四年、『「沖縄独立」の系譜 琉球国を夢見た6人』という著作を発表し、戦前の活動家から復帰直前に活躍した崎間や野底まで、主立った独立論者を取り上げている。そこには、革新系の人物の名前はない。

 とくに強烈な印象を残すのは、時代的に最も古い新垣弓太郎という人だ。その人生は伝説のような逸話に彩られている。

 南へ行け

 明治時代、東京に学ぶ士族子弟の奉公人として上京し、やがて中国人留学生向けの下宿屋を営んだことをきっかけに、革命を目指す中国の若者を支援するよう になる。孫文を中心とする中国革命同盟会の機関紙 『民報』は、この下宿で創刊されたものだった。また同郷の謝花昇や玄洋社の頭山満らを助け、国内の自由民権運動にも深く関わった。

 一九一一年、かつて下宿生だった中国人から誘いを受け、以後十一年にわたり、中国大陸で孫文の革命運動に加わった。しかし沖縄の故郷・南風原町に引き揚げた新垣は満州事変以後、危険人物として憲兵の監視下に置かれる。

 そして四五年五月、沖縄戦のさなか、南方に避難しようと家を出た途端、スパイとしての行動と疑われたのか、日本兵の銃撃を受け、傍らにいた妻は落命した。

 このとき新垣七十四歳。妻の墓標の裏側には、その死亡年月日とともに「日兵逆殺(ママ)」という文字を刻んだ。

 戦後、質素に暮らす新垣の家には、米軍統治下の沖縄人指導者が入れ替わり、助言を求めて訪れたという。その中には琉球政府初代主席の比嘉秀平や那覇市長の当間重剛といった大物もいた。

 新垣は彼らに繰り返し呼びかけたという。
「沖縄人は決して(天皇の)赤子ではなかった。北へ進むのは慎重に考えねばならん。南へ行け」

 南、すなわち台湾と一緒に独立国を目指せ、と訴えたのだった。
 比嘉の著書には喜友名嗣正という戦前からの新垣の友人も取り上げられている。中国国民党との関係が深かった喜友名は「台湾省琉球人民協会」という組織で終戦後、台湾に残留した沖縄人約三万人の世話をする一方、「琉球革命同志会」という別組織も立ち上げ、台湾を拠点に沖縄の独立を訴えた。

 米軍統治下の政治家としては、大宜見朝徳という人物が登場する。
 終戦後、本土のような民主化が見られない沖縄の現状に反発した人々が、現在の与那原町で初めての住民大会「沖縄建設懇談会」に集まった。このときの参加者には、戦前戦後の那覇市長で、のちに琉球政府主席にもなった保守系の当間重剛のような人物から、沖縄人民党を率いる瀬長亀次郎に至るまで、実にさまざまな人士が混在し、文字通り当時の「オール沖縄」であった。

 大宜見は戦前、沖縄人の海外移住を研究する「海外研究所」を創設した人で、ハワイやペルー、南洋諸島 などを視察して回り、パラオでは自ら農場も経営した。

 四七年の沖縄建設懇談会のあと、その主要メンバーは沖縄民主同盟という政党を、瀬長らは沖縄人民党を設立、大宜見もまた自らを党首とする沖縄社会党を立ち上げて、沖縄での政治運動が産声を上げた。

 大宜見の社会党は、のちに沖縄社会大衆党(社大党)から分かれ出る同名の社会党とは無関係の組織で、アメリカの信託統治による沖縄の将来像を訴えたという。

 大宜見は、五八年には台湾の喜友名とともに琉球国民党を立ち上げ、独立論も唱えたが、両党ともワンマンな性格の大宜見の個人政党的な色合いが強く、有権者の支持は広がらずに終わった。

 「トゥー・レイト(遅すぎた)」

 それでも終戦から数年間の沖縄を見た場合、独立論は決して少数者の極論に留まらず、ほかにもさまざまな提唱者がいたという。

 大阪教育大准教授・櫻澤誠の著書『沖縄の復帰運動と保革対立』によれば、一九五〇年にアメリカ国務省が「対日講和七原則」を公表したことで、沖縄における帰属論争はにわかに活発化した。

 この年に結成された中道派の社大党のほか、民主同盟に新勢力が加わって沖縄保守の源流となってゆく共和党、そして人民党、社会党の四党は翌年二月、二度にわたって議論の場を持った。社大、人民両党は復帰論、共和党は独立論、社会党は信託統治論をそれぞれ主張して会談は決裂。その直後の沖縄群島議会(立法院の前身)では、最大勢力の社大党に人民党が加わって提案した「日本復帰要請」が賛成多数で可決された。

 櫻澤は《独立論側は米国の占領継続を見越した上での「現実主義」的な考え方であり、復帰論者は希望的観測を含みつつ議論を展開する「理想主義」的な議論 が見受けられる》とし、《現実的な可能性は別として、復帰論側が基地のない「平和と民主主義」に基づく沖縄の未来像を打ち出していたことも独立論が支持を得にくかった要因であろう》と分析する。

 そう、当時は復帰よりも独立のほうが現実味のある時代だったのだ。
 共和党を母体に離合集散を繰り返し、民主党、自民党とつながってゆく沖縄の保守勢力は、以後、勢いを増す革新の復帰論に「時期尚早論」で対抗するのだが、 櫻澤はその根底には米国の援助を期待する打算ばかりでなく、《戦前の搾取への嫌悪、日本に復帰すると戦前同様の経済的搾取が待っているという意識があった》と、アイデンティティーの存在を指摘して、保革双方とも《戦争を拒絶するとともに、沖縄の政治経済の安定をも望むことに違いはなかった》と強調する。

 比嘉康文『「沖縄独立」の系譜』には、沖縄の代表的独立論者として、新垣弓太郎と喜友名嗣正、大宜見朝徳の三人に加え、復帰直前に独立党を結成した崎間敏勝、野底武彦の足跡が記されているが、もうひとり、 復帰前に活動した大浜孫良も取り上げられている。比嘉は人づてに偶然大浜を知り、その晩年、直接本人から話を聞いている。

 父親の仕事の関係で台湾に育ち、台北帝国大学を卒業した大浜は、戦後、沖縄に引き揚げ牧師となり、六一年から米軍基地内のメリーランド大学講師として、 琉球と日本の歴史を十五年間数えた。

「沖縄人と日本人はまったく違う民族であり、沖縄人はいつも日本人によって搾取、差別されてきた。沖縄社会大衆党をはじめ教職員や労働組合員が中心になって祖国復帰運動が展開されてきたが、私はとてもおかしいと思っている。なぜなら私たち沖縄人の祖国は日本ではないことがはっきりしているからだ。私たち沖縄人の祖国は琉球王国である」

 比嘉にそう語った大浜は、六〇年代後半、那覇市の会員制クラブ「ハーバービュークラブ」(現在のハーバービューホテル)によく通っていた。ここは在留アメリカ人のほか、琉球政府関係者や経済人、アメリカ留学の経験者など、エリートが集まる社交場だった。

 大浜はこのクラブで、本土復帰を疑問視する仲間たちと意見交換を重ねた。琉球政府の第二代行政主席だった当間重剛や画家の山里永吉ら常連メンバーのほか、 琉球新報の前身・うるま新報の社長だった池宮城秀意、 あるいは台湾の喜友名嗣正、のちに独立党をつくる崎間敏勝といった面々もよく顔を見せたという。

 そして、七二年の復帰がスケジュールにのぼると、大浜はひとり、アメリカに直訴の旅に出る。ワシントンではかつて沖縄に君臨した元高等弁務官のキャラウ ェイの紹介で上院議員らが対応してくれたが、誰もが皆、独立を訴える大浜に、 「トゥー・レイト(遅すぎた)」と気の毒そうに答えるだけだった。

 ちなみに、琉球独立党党首として七一年の参院選では惨敗した崎間だが、ハーバービュークラブに集う有力者らとともに、より大規模な運動を繰り広げた時期 もある。六九年、当間を代表に結成した「沖縄人の沖縄をつくる会」の活動だ。崎間は事務局の責任者を務め、地元紙に掲載した意見広告に、当間以下、名の通った経済人や文化人など四十九人が発起人に名を連ねた。

 ただ、多数派の復帰論者からは、この会は「ヤマト嫌いの者」と「復帰尚早論者」、そして「三条貴族の経済人」で構成されている、と批判されたという。三条貴族とは、サンフランシスコ講和条約三条で、沖縄がアメリカの統治下に置かれたことにより、経済的利益を得た者を指している。

「つくる会」は七〇年八月にはさらに錚々たる顔ぶれを揃え、本土でも朝日・毎日・読売三大紙全国版に「復帰の時期は沖縄人の選択に任せるべきだ」「沖縄人の住民投票を」と訴える全面広告掲載の手はずを整えたが、本土政府の圧力で賛同者が次々と切り崩され、掲載は幻に終わった。

 脱落者の中には、那覇商工会議所の会頭で沖縄経済界に君臨した建設会社「国場組」創業者の国場幸太郎もいた。

 現在の沖縄では翁長県政のもと、沖縄の「自己決定権」を主張する声が高まりを見せている。自民党を支持する国場組の現会長・国場幸一はこれを危険視して、 強く批判しているが、その祖父は“三条貴族”としての行動だったかもしれないが、こんな意見広告に一時は名を連ねようとしたのである。

 こうして「つくる会」の事務所は三カ月で閉鎖されてしまう。崎間にとって独立党結成は、こうした“ヤマ場”で敗北したあとの闘いだったのである。

 “変人たち”による前触れ

 さて、このように保守サイドの流れを見てきたが、米軍基地を維持したままの復帰に失望し、その意味で復帰に異を唱える動きは革新勢力にも見られた。沖縄タイムス編集委員(のちに同社社長)新川明らを中心とする「反復帰論」の主張だが、そこには独立論とはニュアンスの違う“反国家”的な色合いもあり、屋良朝助によれば七〇年代初頭、独立党の運動と反復帰論者の接点はほとんどなかったという。

 興味深いのはこの時期、本土から来ていた無頼のルポライター・竹中労だけは、独立党と反復帰論グループの双方と交わっていたことだ。そして三十年ほどの時を経たある日のこと、那覇市の保守市長・翁長雄志が、好きな作家を記者に問われ、アナキスト竹中の名を挙げて話題になる出来事があった。

 翁長は多作の竹中のどの作品を読んだのか、詳細は説明しなかったが、復帰前のさまざまに異なる動きは地下水脈として、実はその後の沖縄にも影響を残した ように私には思える。

 屋良朝助が「参考資料」に、と手渡してくれたのは、〇九年に開かれたシンポジウム「薩摩支配400年 琉球処分130年を問う」を記念した一冊のブックレットだった。そこには「琉球人としての自決権確立を目指す」という会の趣旨に賛同した関係者十八人の文章が収められていた。

 目次には屋良や比嘉のほか、新川とともに革新サイドから「反復帰論」を訴えた作家・川満信一、沖縄教職員会幹部として復帰運動を牽引した福地曠昭など、多彩な執筆者が見られる。

「昔は全く違う立場にいた人たちが、今はもう、こうして仲間みたいになっている。翁長知事も口には出さないけど、一パーセントくらいは、共感する気持ちがあるはずだし、自民党に残った人くらいじゃないですか。今なおまるっきり意見が違うのは」

 現実問題としての独立は別にして沖縄人の自己決定権というテーマそのものには、このように幅広く、共感は広がっているのだ、と屋良は強調した。

 千葉で仕事中心の生活を送っていた屋良が、独立党の運動再開を思い立ったのは〇五年。その少し前、一九九七年には復帰運動を率いた社大党の元コザ市長・大山朝常が九十代半ばにしたためた『沖縄独立宣言 ヤマトは帰るべき「祖国」ではなかった』という遺作のような書籍が出て、話題を呼んだことがある。

 また独立党再結成の前年・二〇〇四年には、比嘉が忘れ去られた独立論者たちの足跡を著書『「沖縄独立」の系譜』にまとめている。

 比嘉自身は、本で取り上げた六人についてこう語っている。
「復帰前、新聞記者たちは皆、こうした人たちを変わり者として見ていました。それでも、彼らは実際には、(崎間を除き)共通して外国での生活体験があり視野が広く、知識も豊富な人ばかりでした。独立を論じるにあたっても、政治的な面だけでなく、経済や軍事も含め多面的に捉えていた。だからこそ私は、いつの日か彼らのことを掘り下げて書きたい、と思い続けていたのです」

 長い間、変人扱いされることが多かった沖縄の独立論者たち。だが二〇〇〇年前後、その存在を人々に思い起こさせる、こうした出来事が偶然にも重なった。改めて振り返れば、その後の独立学会結成や沖縄人意識・アイデンティティーの高まりなど、今日の沖縄の状況が誕生する前触れだったようにも思えるのである。 (次号につづく)


ノンフィクション作家 三山 喬
●みやま・たかし 1961年神奈川県生まれ。著書に『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町』(ともに小社刊)、『夢を喰らう キネマの怪人・古海卓二』(筑摩書房)など。

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