1971年4月7日(水)琉球新報 (下部に大陸渡来説があります。ご覧下さい)

アマミキヨ族 北部から上陸  ほぼ二千三百年前 宇佐浜貝塚
北と南で沖縄古代人住居跡の発掘 文保委、琉・沖大グループが調査

◇沖縄本島北部と南部で沖縄の先史時代を解明する古代人住居跡の発掘調査が行なわれた。一つは国頭村辺戸の宇佐浜貝塚、もう一つは大里村字稲福のイーヌガン遺跡。いずれも考古学的に貴重な資料で今後の調査分析がまたれる。◇

 辺戸宇佐浜貝塚。辺土岬の近くにあり、一九五六年十月十九日埋蔵文化財に指定された。こんどの発掘調査は第四次で、文保委の知念勇調査官、宮里嗣淳久米島高教諭、沖高、辺土名高の郷土研究クラブ員らが中心になって、三月十七日から三十一日まで行なった。過去三回の調査で、二メートル四方のもの三つと五メートル四方のもの一つの住居跡や石器、石皿、土器片などがみつかっている。それによって次のことが推定されている。 1.年代はほぼ二千三百年前の中期貝塚にあたる 2.奄美大島の宇宿貝塚の上層文化と同一系統 3.よって沖縄に農耕文化をもたらしたアマミキヨ族の最初の上陸点と思われる。

  こんどの発掘調査は「遺跡全体の測量と周辺遺跡との集落跡としての関連調査」がおもな目的だった。十五日間の日程中、周辺遺跡の表面調査をはじめ測量調査(地形図)や第二、三、四次の包含層断面図作成、第二、三次発掘地域の埋め戻しなどを行なった。また今回は、第三次調査において発掘された西側石組遺構を検討するため西側と南側に遺構を拡大発掘した結果、あらたな石組遺構や炉の跡があらわれた。これは、前回の石組遺構と比べてわりと整然としており、炉跡と考え合わせると住居跡として形が整ったわけである。同住居跡は、一部が私有地のため未発掘の場所がまだ残されているとはいえ、第四次までを総合した分析結果がまたれる。

 大里村字稲福のイーヌガン遺跡は三回目の発掘調査。三月十四日から二十八日まで行なわれた。琉大や沖大の学生で構成する沖縄考古学研究会連合が中心になって発掘作業に当たった。現場は、稲福の旧部落と呼ばれている石灰岩の海抜百八十メートルの丘陵地帯。戦前までは稲福部落があったが、現在はほとんど移住し、あき地になっている。すぐ隣には航空通信塔がある。昨年夏には、すぐ近くで約三百年前のものと思われる拝所(ウタキ)が見つかり、こんどの拡大発掘調査となった。その結果、九世紀から十四世紀のものと思われる住居跡がみつかった。跡には大小二十あまりの柱の穴が点在、地層によって形も違う。付近からは、鉄のやじり、陶磁器、獣骨、炭化した米、豆などがみつかっている。これは、この土地で農耕が行なわれていたことを物語る。詳しくは、今後の調査分析で解明されるが発掘調査に当たったリーダーの安里進君(琉大史学科四年次)は「こんど発見された住居跡は九世紀から十四世紀ごろのものと思われる。三山分裂の以前で無階級のころである。形式はたて穴式住居ではなく約四メートル円形の平地住居と思われる」と語っている。




琉球独立党とは関係ありませんが以下の掲示板から引用させて頂きました。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=2000549&tid=n05efhna9c0k8c0&sid=2000549&mid=659

アマミキヨ族は大陸からの渡来集団である

今から35年まえに発掘された大里村字稲福のイーヌガン遺跡からは鉄のやじりや陶磁器・炭化した米や豆が見つかっているという。
この時代、陶磁器は日本本土にはない。また、集団的に海を渡るには造船と航海の技術が必要である。当時日本には遠洋を渡る木造造船の技術や航海の技術がまだ発達していない。
この当時の中国、宋の時代に遠洋航海のできる木造船の造船の技術と航海術が発達し、宋に代わったモンゴル帝国(元)の日本侵攻(元寇)では10万人の大軍を長江(揚子江)以南(江南)から朝鮮半島まで船で運んでいる。
この時の元寇で神風がふいたらしい。神風は台風だろうがこのとき遭難し漂流した江南軍十万人と高麗を通って来た4万人はどうなったのか。全てとはいわないが船が2〜3隻程度沖縄に漂着してもおかしくない。
何れにしろ当時の日本には多人数の人を乗せる船と遠洋航海の造船技術や航海術はなかったのである。また、陶磁器やその技術も大陸からはまだ伝わっていない。
アマミキヨ族は中国大陸のモンゴルなどの北方騎馬遊牧民族の侵入にともなう動乱による民族移動やその後の元寇やモンゴル帝国滅亡時の王族の琉球への安置などで沖縄に集団的に渡来した人々であろう。
沖縄本島南部には朝鮮半島やモンゴルから伝わったと思われる墳墓がある。
また、沖縄角力(シマ)はモンゴル相撲や朝鮮の相撲(シルム?)に良く似ている
受水走水(ウキンジュハインジュ)の稲が伝わった伝説も台風で遭難した鶴が伝えたという。
だいたいで10世紀以前の沖縄人の骨と10〜13世紀以降の沖縄人の骨はだいぶ違うらしい。それは、中国の遠洋航海の船の造船と航海の技術の発達が関係しているだろう。


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