第2セメスター第1クール 演習(片木淳教授)レジュメ         2005・10・28

  「沖縄における、自治・自立・独立論の系譜」

                                 公共経営研究科
                                  玉城 朋彦

江戸時代の初頭、1609年に、薩摩藩島津家久の軍隊が南西諸島を南下し、現在の沖縄本島に上陸して琉球王国を侵略した。以後、薩摩藩は、琉球王国を附庸国(属国)として位置付ける。薩摩藩は鎖国の江戸時代にあって、琉球王国を通して清国や南蛮との貿易を行う間接貿易を展開する。幕府に対しては「琉球王国を通じて貿易品を入手」と報告した。この体制は、江戸時代の期間中続いた。琉球王国は、薩摩の侵略以降も清国との朝貢関係を継続していく。つまり、南海の琉球王国は、日支両属の時代を送った。
 明治2年の版籍奉還、明治4年の廃藩置県に遅れて、琉球王国が琉球藩になるのは明治5年。沖縄県になるのは明治12年のことである。以降近代日本の体制に組み込まれて行くものの、絶えず独立・自立、自治を求める動きが生起し消滅するという系譜を辿っていく。その沖縄の自治・独立・自立の提起や運動は次の様な4時期に区分できる。

@.近代(明治時代―昭和戦前期)の自治の動向
 明治4年、琉球王国の宮古島の漁民が台湾に漂着した際、台湾先住民に殺害されるという事件が発生する。事件を知った明治政府は、これに対する報復と言う大義名分を内外に示す為「琉球王国」を明確に、日本の一地方とする必要に迫られ「琉球藩」にする。以後琉球藩の運命は約7年続く。(方言禁止令)
1.廃藩置県期の脱清人の「琉球救国運動」
琉球王国は、小さいながらも独立した国家であり、薩摩藩の進入以来、琉球王国は、徳川幕府の将軍交代の時には、慶賀使を江戸に送った。同時に清国とは琉球国の王が交代する際に冊封使を受け入れた。また貿易と併せて清国の国王には貢物を贈る進貢船を送り出した。朝貢関係である。琉球王国の重役士族には、この関係を継続する為にも、藩への移行は許容する事はできず、清国に渡航し琉球王国を救援するように求めていく。その士族を歴史研究者は「脱清人」と名付けた。藩移行になじめない琉球国の親清派である。清国と琉球王国の貿易窓口であった福州には、琉球館とよばれる外交事務所があり、盛んに外交と貿易活動を展開していた。脱清人らは、福州琉球館を拠点に「琉球救国活動」を展開した。しかし、この運動は、日清戦争の勃発と清国の敗戦によって、運動も展望を失い消滅する。士族の中には、琉球へ戻らず、福州の「琉球人墓地」に眠る事を選択した者もいた。
2.琉球王尚泰(しょうたい)を沖縄県知事にと訴える「公同会運動」
その後、琉球藩には他の藩から知事が着任していくようになる。初代県令は、鍋島直彬(なおよし)であり、二代県令は上杉茂憲(しげのり)である。いづれも佐賀と山形・庄内からの着任であり、この時には、沖縄も他県と同様に琉球王国の国王を県令にするように中央政府に訴えていく。しかし、これは認められなかった。公同会は、沖縄で初めて結成された政治結社であり、旧琉球王国の指導的リーダー達が、最後の国王尚泰の次男尚寅を中心に展開され、最後の国王尚泰を県知事にするように求める特別制度の実現を求めた。明治30年(1897)に代表団を東京に送り、明治政府と帝国議会に嘆願したが、逆に公同会の運動の継続を行った場合、国事犯として厳格に処罰すると脅迫されて、帰郷。運動は終焉を迎える。以後、沖縄は皇民化教育を受け入れていく。日本との同化の過程である。

A.第二次世界大戦期後(戦後の米軍統治時代)の動向
1. 戦後の独立論の動き
1945年(昭和20年)の敗戦後、後の日本共産党の沖縄県委員会になる沖縄人民党
は、米軍の統治責任者である民政長官に「沖縄人民から言論結社集会の自由は言うまでもなく、信教の自由まで奪い取っていた日本軍閥を撃砕し沖縄人を解放したアメリカ軍に感謝しつつ米軍より与えられた結社の自由を適切に生かし沖縄を民主化する為に沖縄人民党を結成する」と述べて、党結成に至る。「琉球は、巌として琉球人のものなり」と訴える沖縄民主同盟も発足し琉球共和国の発足をめざした。当時は、琉球独立論・日本復帰論・アメリカ帰属論に県民の声は分かれた。しかし、講和条約締結の1950年頃には、日本への復帰を目指す「祖国復帰協議会」が結成され、独立論は、勢力を小さくしていく。
2. 琉球独立党の動き
佐藤総理とニクソン大統領の日米首脳会談で沖縄返還協定が締結され、1972年に日
本復帰が実現する。沖縄教職員会を中心に革新系の沖縄社会大衆党(社大党)、沖縄人民党(後に日本共産党に合流)、社会党、公明党の復帰運動は成功した。と同時に、沖縄自由民主党の元琉球政府主席を勤めた政治家らは、「沖縄人の沖縄をつくる会」を組織し、復帰尚早論を提起したものの、民意を掌握できず消滅する。復帰を前にして、最後に実現した琉球政府の主席公選には、琉球独立党の候補も出馬したが、「民族の利益至上主義」は、有権者の支持を得ることはなかった。メディアも泡沫候補として扱う等、復帰一辺倒の風潮に対する
意見は黙殺された。県民には、日本復帰すれば、すべて良くなるという雰囲気があったのだ。社会の矛盾が解決されるのが復帰と思われた「復帰賛美」への警鐘は、異端者として扱われていった。ジャーナリストにも「反復帰論」を提起した思想家がいたものの、市民の支持には遠かった。まずは、人間としての人権の確立であり、その為には、「日本人」になり、「国籍を得る」事が先決であった。
B.学者の提起(1972年前後の動き)
 これらは、いずれも政治家や思想家によって提起されたものだが、政治学や経済学の研究者の問題提起はどうであっただろう。くしくも、月刊誌『中央公論』誌上で四人の自治論が紹介されている。これまでの提起が、ここで、一歩前進する。

*平恒次、久場政彦、比嘉幹郎、野口雄一郎の中央公論誌上提起の論点
まず、平恒次は、中央公論1970年11月号において、『琉球人は訴える』を発表し、
復帰運動は安易なものであり、「本土並み」思想は、排撃すべきだと述べている。彼は経済学者でイリノイ大学の教授である。彼はまた、復帰が日本の新しい自治の突破口になるべきであると提起し、この延長線上には、日本と沖縄が連邦を組むというアイデアがあった。沖縄特別自治体の提唱である。もう一人の経済学者久場政彦は、中央公論1971年9月号誌上において『なぜ、「沖縄方式」か』を発表し、「沖縄の人々は長い苦しい民主的な戦を通して、大幅な権限を実質的に獲得した。日本復帰で他府県並みになるということは、これを失うと主張した。つまり復帰を認めつつも疑義を唱え「沖縄特別地域という経済自由貿易地域」を提案した。更に政治学者の比嘉は、中央公論1971年12月号で、自治の構想も持たずに、日本の中央集権に組み込まれると千載一遇のチャンスを失うとして、沖縄自治州構想論を提案する。野口は1973年6月の中央公論誌上に『復帰一年:沖縄自治州のすすめ』を書いた。共通するのは他府県並みの扱いを拒否し、沖縄特別自治州を提案しているところである。しかし、復帰直前でもあり、現在のように世界的な分権の研究もなされておらず、抽象的な提起に終わったように思う。マジョリティは、復帰であった。具体策の欠如した提言と言う意味からすれば、精神論に近いが、当時としては先進的な提起で、革新・保守、あるいは経済界も組合サイドもこの新時代に対応する連邦型自治の提案を咀嚼できなかったと、思われる。

C .復帰後の自治構想の提起
1.自治労の「沖縄特別区」構想
全日本自治団体労働組合(自治労)による、「二一世紀にむけた沖縄政策提言・パシフィ
ッククロスロード−沖縄.[付]琉球諸島の特別自治制に関する法律案要綱は、1998年にまとめられた。主な内容は、沖縄の位置や歴史に触れたあと、経済発展論に移り自由貿易地域の拡充強化による経済特別区の形成を提言。法人税の軽減措置、独自の関税措置の導入、輸入自由化(IQ枠の撤廃)、国際空港としての那覇空港の整備、IT企業の優遇措置、政府国際援助の活用によるアジア地域との経済交流の活性化、国立観光総合大学の設立、那覇港のベースポート化等を挙げている。この政策提案は、自治労沖縄県本部出身の吉元政矩氏が中心になっていることもあって、大田昌秀革新知事県政が打ち出した、国際都市形成構想とも、重なる部分が多い。吉元氏は、大田県政において、政策調整監として迎えられ、副知事にも就任するからだ。それでは、米軍基地についてはどのように見ているであろうか。返還の促進は、もちろんだが特別事業法の整備によって、跡地利用の整備活用促進を訴えている。雇用促進については、機構をつくり官民による促進を掲げた。

2.大田県政の「沖縄国際都市構想」
大田昌秀琉球大学教授が知事に就任した背景には、西銘順治知事の県幹部起用に自民党
内の派閥バランスを崩した事が上げられる。従って、革新系の政党に自民党の反主流派を加えた陣営が、政権の転換を勝ち取った。公明党をも含む共闘体制のポイントは、「平和」であった。しかし、平和論では、県民の生活の安定向上は望めなかった。そこで、自治労のプロジェクトを県政に反映すべく国際都市形成構想が策定されていく。また1995年9月には、米兵3人による女子小学生暴行事件が発生し、問題を重く見た、政府も沖縄側の要求を大きく取り入れていった。村山社会党内閣であった事も功を奏し、続く橋本政権も、沖縄県知事と主要閣僚による沖縄政策協議会の設置を継続し、米軍基地返還アクションプログラムなどと国際都市形成構想が認められていくように見えた。
 しかし、大蔵省(当時)の壁は高く、沖縄側の主張、例えば『沖縄全島自由貿易地域化』提案や、沖縄への企業立地促進の為の、投資減税制度の導入、立地後の法人税の低減などは、日本、米国、台湾等の企業から注目を集めたが、全て、見送られ、法人税の低減も、他の発展途上国に比べ、投資誘導効果を持ち得なかった。日本の官僚の腰の引けた姿勢が、沖縄の発展を阻害する大きな要因になっている。

D.結語
共通して言えることは、それぞれの時代のエリート達が自治・自立・独立と言う視点で問題提起したのもの、広い意味の市民運動に為り得なかった。それは、制度や自治がどのように変化しようとも、住民の生活を豊かにさせる要因を考慮していなかったからである。@−1の救国運動は、琉球王国士族の保身運動と日本国に同化できない精神的なものが強い。@−2は、明治期以降の、沖縄県知事が中央からの勅任であったことに対する、琉球王を知事にするように求めた運動で、ノスタルジックであって、市民運動ではない。その後は、大正、昭和戦前期を通しての日本―沖縄の同化運動期で、国内の皇民化運動とあいまって、沖縄住民が日本国民に同化して行った。従って、A−1のように、日本の圧政から米軍が解放してくれたと言う見方は、戦中の天皇の為の集団自決や日本軍兵による住民虐殺からは、解き放たれたという開放感によるものだが、しかし、多くの沖縄住民は、日本国民という意識が強く、米軍統治という「国籍の無い」=「無国籍」の統治形態の中で、自らの人権の保障を求めて、米国籍ではなく、日本国籍を求めていくようになる。A−2独立党の時期も、多くの県民は「日本復帰」を望んでおり、米軍の統治も、日本への帰属も拒否をして、独立を志向という県民は、殆どいなかった。
B−1は、大きなうねりとなっていた、日本復帰を求める声が「祖国復帰運動」としてアピールしていく運動に対しての、保守系政治家の保身、あるいは経済人の既得権益保護を求める色彩が強い。けっして市民運動ではなかった。これらの動きに、政治学や経済学の研究者達が、別個にではあるが、論理を展開したのがA−2における提起群である。沖縄から米国留学に行き、そのままイリノイ大学の教授についていた平は「琉球人のアイデンティを確保するチャンス」としての復帰と捉え、提起した。久場(くば)政彦は、琉球大学経済学科教授であるが、復帰を「沖縄自由貿易地域化」のチャンスとして捉え、経済の発展は、日本の政策に組み込まれてはありえないと主張した。同じく政治学教授の比嘉幹郎は、スタンフォード大学出身で、47番目の県になってはいけないと主張。米軍統治下で沖縄住民が市民運動で価値取った自治権を維持する為にも、特別県に移行することを提起した。
しかし、当時の沖縄住民の希望は、国籍の明確化で、国旗も無く、自らが何人かもわからない立場からの脱却であり、まずは、とにかく日本人になるという希望であった。戦後できた米国留学制度で多くのエリートの米国での育成が進んだが、その声はマジョリティには、ならなかった。保守、革新という立場を超えて、大多数は日本国民になることを選択したのだった。
その、沖縄県民の意識が変わり始めるのは、復帰後10年が経過した頃からである。日本政府は、沖縄の社会資本の整備に莫大な予算を投じ、道路、橋梁、学校設備等の整備を進めた。県民は、社会環境の変化を「発展」と受け止めていたものの、その一方で、期待していたはずの、県民所得は相変わらず、全国平均の70%しかなく、在日米軍基地の75%は、沖縄県内に集中している。多くの県民が、期待していたはずの「プラン」ではない事に気づき始めたのである。その時期に自治体労働者で組織する「自治労」は、C−1沖縄特別県制構想を考え始めていくのだった。
現在、第二十八次地方制度調査会は、来春二月を目途に、道州制の導入を、検討している。現在の審議の経過を情報等で見る限り、自然、歴史、文化等から検討して、沖縄県は単独で「沖縄州」に移行するという、意見が多いように見受けられる。近世以降、模索してきた沖縄の、最も望ましい「自治のあり方」を創造できるチャンスの到来と見て差し支えないであろう。沖縄の側は、このチャンスを活かしきれるだろうか。様々な提起は、多数派になりえい時期があり、逆に自治労の提案や、国際都市形成構想は、早すぎた感がする。今、沖縄に求められているのは、主体的に沖縄のこれからを創造していく「地域構想力」のようなものであろう。そこには、補助金や特別扱いを拒否する考え方が必要である。
いま、郷土の歴史を踏まえて新しい沖縄の自治を創造する時が、到来している。
琉球王国は、中国と日本という二つの国に朝貢する歴史をもつ。しかし、南海の王国はまた、中国・日本・東南アジアの結節点に位置しているという有利性から各国の多様な文化を吸収し、琉球独自の文化を歴史の中に育んできた。琉球舞踊、琉球音楽、空手、漆器、染織等である。二一世紀に、沖縄が「自治州」に移行することは、経済の自立とあわせて、これらの琉球文化の継承発展の機会と捉えたい。先人が苦悩しながら生み出した文化やあるいは産物に、さらに磨きをかけて、他府県や県外にアピールするチャンスである。
一方、日本に復帰以降の33年の歳月は、本土の各分野の系列化が進展した33年であったのではないか。系列化は現地の力を、分裂させる効力がある。政党も、経済界も、組合もそうである。今は、戦後の復帰運動がそうであったように、95年の米兵による少女暴行事件の抗議集会がそうであったように、県民が超党派で自治の主張をする時である。その求心力の中心には、自らの土地琉球に根ざしたアイデンティティの確認があると思えてならない。自らの地域の歴史と文化を伝承、発展させる力である。独立論、自立論、自治構想の、それぞれの時代に提起された「沖縄の声」は、地域の心の訴えであった。